かつて日本が戦争に参加していく過程でこれを抑止したりどこかで止める安全装置を持たず敗戦でさえ結局天皇に決めてもらうという形しか取れなかった反省から戦後社会は「憲法九条」に価値を見出したが、じゃあ、これを破棄した時、いかなる安全装置で代替するのか、という安全保障論はないんだな。
近所のカフェで陰謀史観を毎日披露する元大企業役員氏みたいな人が知識や経験のある社会人枠で社会科や歴史教える、なんてことにならないといいが。どさくさでなるんだろな。 twitter.com/nhk_news/statu…
観光船社長、無線アンテナ折れている、衛星携帯電話積んでない、「遺族に対応するアプリか何か」をと思いつき発言。この「アプリで問題解決」という浅い思考の浸透の仕方、既視感が多いなあ。
プロパガンダって動員された当人は「自分の意思で決めた、動いた」って思ってるところで、SNSのない時代「大政翼賛会のメディアミックス」「暮しのファシズム」「大東亜共栄圏のクールジャパン」で散々書いた、動員ができてしまっていたんだから、今その辺の人を動員するってどれくらいチョロいか。
プロパガンダに流されきった後で自分の意思ではなかった、と、あの時も「庶民」は終わった後で言ってたよ。そしてあいつが悪い、こいつが悪いと名指しし合う中、巧みに逃げ通した中枢にいた人が戦後メディアや電通つくったって話、ずっとしてるだろうに。 絶望的なまでに誰も聞きやしない。 twitter.com/MiraiMangaLabo…
自民、国民投票法の改正検討 CM規制なし よかったね、プロパガンダし放題。 nordot.app/88659010192850…
ウクライナ戦争がプーチンの暴走なら、そこから改めて導き出されるのは、為政者=国家の暴走を法でコントロールすることの重要性、そしてそのような為政者をそもそも選ばない主権者としての民主主義システムの運用という当たり前の結論のはずだが、さて、その方向に向かっているのか。
今、私たちが無自覚に渦中にある「宣伝戦」はロシアとウクライナのそれではなく、改憲や核武装を是とする世論の完成という国内の協働的な「宣伝戦」だ、ぐらいの自覚は一方では欲しい。
非戦闘員殺害の悲惨な報道が一挙に流れてくるが、戦争はロシア人だけでなくあらゆる人から正気を奪う。だから戦争はしてはいけないのだ。殺されるかもしれないと言う想像だけでなく、こうやって殺す側に回ったり追い込まれるかもしれないことも同時に想像し反戦は初めて語ることができるはずなのだが。
かつて侵略した国が「二度と侵略をしないためにどうするか」でなく「侵略されたらどうしよう」だけを考えることができるのはゼロ年代から安倍政権下で蔓延した新しい「平和ボケ」の一種に見えてならない。
ウクライナ戦争が終った時、核武装や敵基地攻撃能力、九条改定が左派のかなりの部分を含むコンセンサスになっていて、それから覚める間もなく選挙に突入する、と言う流れになってしまうことを僕はそれでも危惧をする。
「戦争には反対ですが」と数文字いうだけの担保で発せられる「戦争支持」の言葉がいかに多いことか。そして増えつつあることか。
ウクライナ戦争下だから流石に憤る人が多いが、安部政権下、「反戦デモ」の位置付けがこの方向に報道を介して誘導されていったら、沖縄の反基地デモ、政権批判は「悪」「敵」とする世論の傾向なども見れば、相応に支持された可能性も相応に高い。 twitter.com/MiraiMangaLabo…
2020年2月だから安部内閣、河野太郎防衛大臣時代。 記者向け勉強会ということは「反戦デモ」をどう位置づけるか報道への誘導でもあったはずで記者に実際に配布されたなら、その時は報道は沈黙したということになりそれも危うい。どうなのだろう。 chunichi.co.jp/article/444187
本は借りられず90分の時間制限、届がない本棚で、どう子供らに本と出会えというのか。そもそも図書館と呼んでいいのか。最近の自称図書館はオレの建築を鑑賞しろ的なものがめだつなあ。 kobe-np.co.jp/news/sougou/20…
戦時プロパガンダの原則は戦争という複雑な現実を考えるのが面倒な人々にいかに単純で感情にうったえるシンプルなスキームや言説とそのための加工した情報を与え考えた気にさせるかにある。だから戦時広告は戦争が終わるとしばしば間抜けに見える。
ウクライナ戦争に関する言説か地政学と戦争美談に二極化していることにも注意しておくこと。地政学と美談はわかりやすく戦争を大衆に説き に動員する第二世界大戦でも活用されたツール。美談に感動し地政学という大きな物語で理解した気になる。いわばセカイ系と同じ思考回路。
イラク戦争では侵攻する側、ウクライナ戦争では侵攻される側と常にアメリカの側の視線から戦争を観るだけで、侵攻され市民に犠牲者が大量に出ている側に普遍的に立ちそういう戦争を全て否定すべきなのにそうではない今回のロシア限定の侵略戦争批判はいささか恣意的だといってもわからないんだろうな。
ロシアのウクライナへの侵略に憤る人らが必ずしもかつての日本のアジアへの侵略に想像力が及ばないのが不思議でならない。侵略された側の憤りは同じはずなのだが。普遍的であろうとしない戦争を語る言葉は信頼できない。
Yahooニュースのコメントには仕方ない、当然が上位に並ぶ。理研の短期の成果主義が小保方問題の背景にあったことやノーベル賞受賞者がこぞって基礎研究の重要性を訴えて来ても全く顧みらないことに驚く。  news.yahoo.co.jp/pickup/6421991
報道は戦争が心底嫌になるニュースも日本ではいくらでも流せるのに、なんで戦争に感動するニュースばかり流すのか。 そのことにも冷静になった方がいい。
戦争が起きた時、自分に何かできることはないかといったら、ないし、できることは戦争に参加することだけで、あとは「参加しない」が唯一できること。対して、戦争が「始まらないように」できることはいくらでもある。
国のため、郷土のために戦う、死ぬ、というと陶酔できて気持ちよくても各市町村の首長の顔思い浮かべて、武蔵野市にために戦う、小池百合子の下で戦って死ぬ、って考えるとあまりならんでしょう。 なる人もいるかも知れんが。 twitter.com/MiraiMangaLabo…
キエフ市民がキエフにとどまり銃や火炎瓶で戦い準備をする姿を見ても、僕は杉並区や三鷹市や吉祥寺を守るために市街戦に参加しようと思えない。「国土」や「郷土」としての「国」を「自衛」するつもりでも、市民の死をもって実際に守ろうとするのは「政権」や官僚システムなんだけどね。
ゼレンスキーや報道の垂れ流す「美談」で平和主義を簡単に捨て戦争に感動を求め自分もこうありたいとあっさり思ってしまう方の「平和ボケ」をなんとかして欲しい。あのさ、戦時下って「美談」の山で、誰もが戦争で感動したいって待ち構えているとても気色わるい光景がかつてもあったんだから。