この堂々とした「開き直り」をマウントや論破に近い「勝ち」と感じる受け手のメンタリティが一部にあって、その人らの快哉を期待してのドヤ顔なんだよな。 news.yahoo.co.jp/articles/2e9b2…
この、騒がれて入るけれど結局、なんとなくうやむやになって許されちゃうんだよね、と言う左派の諦念、右派の冷笑、多数派の傍観の錯綜する、安倍案件で散々、染み付いたこの「感じ」。 この「感じ」をまず、払拭しないと。
宣伝やプロパガンダは情報発信に目が行きがちだが、見えるのに見ない、聞こえるのに聞かない、言うべきなのに言わない人々を作り出す戦時下の「消極防諜」。戦時下防諜体制と言うより従順な国民作りの基本概念だった。政治に「消極防諜」の層が多数派なら政治は大抵のことが押し通せる。 今も。
旧統一教会と政治、「昔のことをいつまでも言うな」論でいつものように霧散していきかねないなあと思うのは「いつものように」が、そもそもなんであったか、思い当たらなくなっているからで、そうやって許してしまう有権者の態度が安倍内閣の時代を通じて肥大した感じがする。
何が起きても大したことじゃない、特定のやつらが騒いでいるだけだ、という世の中にすっかりなってしまい、大したことがいくら起きても鈍麻して、大したことじゃないと嘯く人らに流され彼らのための世の中が続くのは正しいことじゃないんだよ。全然。
旧統一協会と政治も電通がらみのオリンピック利権も後になって出てきて「やっぱりなあ」との声の後に「今更とやかくいってもなあ」と言う世論が作られる。しかし「今更とやかくいう」ことでしか「歴史」は描けないし、政治や政治的イベントの評価はできないんだけどね。
統一教会問題がこのままでは自浄化できないのは与党も野党も左派とみなされてきた報道機関も、「今の体制」と言うよりそこにおける自分のポジションを守っているからで、名前の出た議員全員辞職にでもならない限りどうしようもない。
朝日もかつては自民党政治家と統一教会について相応に報じていて「統一教会の運動に共鳴」する議員の晩餐会の名誉委員長が岸信介、石原慎太郎の名もある。別の記事でこの日、石原が「同志として選挙運動を助けてもらった」と挨拶したとも報じられている。
統一教会問題、野党含めあまりに蔓延しすぎて結果報道は量だけは膨大になり、それと比例して「みんなやってる感」で当事者らは安堵し次に「まだやってるのか、そんなこと、もっと大事な頃あるだろう」論が出てきて別のニュースに流されていく と言うのはいい加減やめないと、 と永遠に思わないのか。
ひろゆき、粗忽に与党を旧統一教会から切り離そうとしたテレビ・web言論人の足元が不安定になっているところにカルトと政治の関係を曖昧にする論調をばっさり、百田、橋下とは呼応、「国葬」は支持し、パソナ竹中とは和解と、こういう人らの世界でも次をにらんだ再編が始まっているんだなあ。
福島瑞穂が手に入る範囲とは言え吉田茂の「国葬」の記事や資料を掘り起こし「国葬」とは具体的にどういう状況だったのか考える材料を示しつつ問うているのは悪くない。東とのやりとりも文字起こし見る限り筋道が通っている。 twitter.com/mizuhofukushim…
「国葬」で税金を使うならそれは国民が一律香典を払うようなものだから、香典返しで一律給付金を払え、というツィートが頓知として秀逸。実際、国葬後、コロナやウクライナや円安や物価高や憲法改定や、どういう要らん香典返しが待っているのやら。
「国葬」が問題なのは「国葬」の名の下に「権力」を可視化させること自体が国費による元首相の偶像化という政治的プロパガンダであり、また、メディアから人々まで「国」によって「国葬」にあたり何が求められどう応じるかという「同調圧力」が思想信条の自由を萎縮させるリスク。
事件と旧統一教会と元首相の関係をうやむやにするための頓知というか大喜利が旧メディアでもオンラインでも進行中で、あの人もこの人も参加して、この人なんかも座布団2、3枚は後々、もらえるんだろうな、と思う。 #Yahooニュース news.yahoo.co.jp/articles/7414c…
これだけ元首相と旧統一協会の関係が誰がどう見ても歴然とそこにあるタブーになっていて、しかし、触れない、ないと言い張り、恭順する言論人や報道の姿を見て「王様は裸だ」の寓話がとてもリアリズムな表現に感じる今日この頃。子供が叫んでもそれさえ聞く耳持たんのだろうし。
この10年で作り出されたのは政治権力と同一化することで「そうでない国民」にマウントすることを愉悦とする「国民」を支持基盤とする政治なんだよな、と思う。
国家公安委員長の名前までちらつけば、そりゃ、みんな、政治と旧統一教会の関係に沈黙するよなあ、と納得。
有田芳生氏が元統一教会について語る姿を見て自明だと思っていたことがこんなに伝わらず断絶していたのかと経済とは別の「失われた30年」がこの件に限らずあったんだよな、と改めて思う。
まるで何かが憑いたように「国葬」、「原発再稼働」と次々と秋冬に向けて「英断」を下していく。 news.yahoo.co.jp/articles/99629…
全国の学校や企業まで同一時刻に黙祷等を半強制でやるとか、「国葬」が憲法改定の流れに都合よく接続されないかとか、「国葬」の名の下に報道も含め誰が動員されるのか、そこに至るこれからの過程も含めて記憶・記録しておくのはそんなに難しいことじゃない。
今朝のモーニングショー、予定された旧統一教会と政治の関連のコーナー、ばっさり後日回しになった直後に日本財団が提供の時間帯に入る。同財団の前身、日本船舶振興会初代会長は笹川良一氏が国際勝共連合発足時の名誉会長であるのは無論、全くの偶然で、きっと忖度のない報道を後日やると信じたい。
何年か前「感情化する社会」という本を出して、人々の行動原理が理性でもイデオロギーでもなく「感情」とその一体化に傾き過ぎてはいないかという違和を書いたが、別に予感が当たったとも言わないが、ああ、この感じなんだよ、と「今」を思う。
元首相の「国葬」は一つ間違えば国民参加の「神格化」になりかねず、他方では電通が「国葬」企画のプレゼンとかリアルに準備してそうで、今進んでいるのは「陰謀」じゃなくそういう「政治」を野放しにして来た果ての光景。
表現や言論の自由にせよ信教の自由にせよ、「国家権力からの自由」という点で最大限に担保されるのが原則だが、権力を補完し忖度もし、その庇護で自分ら限定の自由を権力に担保していただくことに、これらの「自由」を希求するあり方が根本から変わってしまっている。
「反アベ」はとこかの粗忽な「左派」を生贄にすればあっという間に「反共」から、どこかで聞いた「勝共」というオチになる。