1964年の科学教材社店内 模型店では電子工作部品やラジオキットも販売していた スーパーヘテロダイン式の受信機の調整には測定器が必要なので科学教材社では測定器を備えた「ラジオ無料相談室」を提供していた 小中学生でも本格的ラジオ製作に挑戦した時代 技術立国の推進役は国策ではなく模型店だった
政治はテーマでは無いのですが・・・ テレビ番組で高市氏「電磁波で敵基地無力化」(共同通信) nordot.app/80892791545882… 並の電磁波(=電波)で敵の兵器を無力化できない事は75年前の旧日本軍の研究で解っています 敵を無力化できるほどの電磁波を日本から放射すると日本の電子機器や基地が無力化されます
1966年からNHKで放送された子供向け科学番組「四つの目」を含む大量のビデオテープがNHKに提供された 色々な現象を 肉眼の目 通常撮影 時間の目 タイムラプスや高速度撮影 拡大の目 顕微鏡や望遠鏡 透視の目 X線撮影 を利用して子供の科学の編集者だった草下英明氏が解説した nhk.or.jp/archives/hakku…
紙テープを目視で読むシーンは、特撮番組やアニメ、SF映画の見せ場に登場します 科学特捜隊や科学者、宇宙人が読んでいますが、実際に紙テープを読める方は… 通信用テレタイプ(5bit)のオペレーター テレタイプ(8bit)の入力専門職であるキーパンチャー ミニコン、マインコン初期のプログラマー です twitter.com/nosuz/status/1…
4月13日JRが「えきねっと」のアクセス集中対策としてJR駅の「みどり窓口」の利用を呼びかけた 「みどり窓口」がどのように開発されたか、そのルーツを紹介します 1957年までの座席予約は各駅から東京駅まで電話連絡して手作業で処理していました 写真は中華テーブル型の回転する座席指定台帳を使う職員
マイコン博物館に東芝の「青梅事業所」で活躍された技術者が来館されました 1981年 PASOPIA 8bitマイコン 1987年 J-3100SL PC/AT互換機ラップトップ 1989年 DynaBook J-3100SS ノートPC 1996年 Libretto 超小型ノート などを担当され、ここで懐かしいPC達に再会されました 素晴らしい技術者人生です
米国イリノイ州 HAL LaboratoriesよりHAL9000型 2号機を寄贈いただきました 貴重な2号機を長期間保管され、寄贈いただいたチャンドラ博士に感謝いたします 2号機は、1990年に稼動し、3号機の開発ツールに使用されました 3号機は、ディスカバリー号に搭載され木星探査に出発しました #エイプリルフール
初期の月刊アスキーでは、アニメ・SF好きの編集長(現・館長)が、産業会館で開催されていた、初期のコミックマーケットに出向いて、メカイラストや、萌えイラストが得意なイラストレーターをスカウトしていました 彼らが、毎号、色々なイラストを誌面用に描いてくれました 読者にはとても好評でした twitter.com/snapwith/statu…
80年代に入ると、子供達の興味と、お小遣い支出の対象が、アニメや、新登場したゲーム機へ移っていった その後に、受験勉強の時間も多くなり、子供達の模型工作、電子工作との関わりが少なくなった 模型工作雑誌や電子工作雑誌が無くなり、模型店も減少した そして、日本の技術立国の優位性が低下した
最近は、マスコミ各社からの黎明期のマイコン資料の提供依頼が増えています 研究者からの調査協力依頼も有ります 技術史を遺す事はとても重要です 未来につながります マイコン博物館にて技術史を遺せるのは、多くの寄贈者のご協力による成果です 改めて、寄贈協力に感謝します twitter.com/hellotocky/sta…
高橋和秀 様よりApple Computer テンキー付きAppleIIeを寄贈いただきました AppleIIスタイルの最終形の製品です ケース上部にはAppleIIの開発者であるスティーヴン・ウォズニアック氏(Stephen Gary Wozniak)のサインが有る超貴重品です 人生の宝物を寄贈いただき感謝いたします 未来の世代へ遺します
中高生の「工作デスク」の1日利用料は500円です 先日この利用料が厳しいと保護者から相談がありました そこで所蔵雑誌の目次入力ボランティアをお願いしました 付き添いの保護者が雑誌12冊の目次を入力して1日利用券を2枚差し上げました 中高生はトランジスタなどの部品を無料で使えます 活用願います
50年前の1971年11月15日付Elctronic News誌にて始めて広告されたi4004 4004は日本のビジコム社が開発費を負担してインテル社が開発した ビジコム社の4004搭載電卓は売れなかった 4004の将来性に気が付いたインテル社は、開発費をビジコム社へ返却して自社発売を開始した 両社の運命の分かれ道となった
1960年代から70年代までは、戦時中のパイロットや航空技術者が現役だった 彼らの指導の下で航空機設計技術や操縦技術を学ぶ事が出来た 航空マニアは、模型飛行機を作り、そして自分が乗って操縦する飛行機を自作した 航空技術の継承は途切れ、今の航空マニアとは飛行機を撮影する人を指すようになった
インテル社は、i8080などが売れ始めたので、パソコンがどこまで普及するのか、調査会社に高額な費用を払い市場調査したそうです その結果は「パソコンの市場は限定的」でした インテル社はパソコン完成品への進出を止めました 1987年位にインテルの副社長が笑いながら話してくれたのを直接聞きました twitter.com/Dream_Library_…
バブルの崩壊後の資金問題と、Windows対応の技術課題を乗り切れたのは、豊富な資金力と技術力が有ったジャストシステムぐらいだった ジャストシステムは、Windows対応だけでなく、ネットに対応するUnicodeの導入、Unicodeコンソーシアムでの日本から唯一の重要メンバーになるなど活躍する事ができた
一時期PCの記録メディアとして大量に利用された3.5インチFD そのルーツは知られていない 写真左は1980年にSONYが開発した最初の3.5インチFD シャッターの開閉を手動で行う方式だった その後ドライブに挿入すると自動でシャッターが開き、取り出すと閉まるという写真中央の「Auto Shutter」が考案された
マニアは大興奮しましたが インテル社はコアメモリ時代に半導体メモリのトップ企業に成る為に設立された会社でした 本業はメモリの製造で、4004などは本業の立ち上がり遅れで暇だったので引き受けました 本業はメモリ製造なのでマイコン革命に気が付きませんでした インテルの会長から直接聞いた話です twitter.com/madnoda/status…
ピカピカ光るコンピュータLegacy8080を絶賛発売中です 伝説のマイコンAltair8800、IMSAI8080の復刻版です 映像は毎秒2命令で実行中 機械語が解る方は処理内容を読み取れます 高速で動くとMHzで点滅するのでピカピカは上位bitしか見えなくなります ピカピカ光るのはデバックモードか、見栄の演出でした twitter.com/witch_kazumin/…
左は、対潜飛行艇 PS-1 右は、月刊アスキー 1978年9月号 CP/M解説記事中のIMSAI8080 何の関係も無いように見えるが、実は、このIMSAI8080でFORTRANコンパイラを走らせてPS-1の機体の強度計算を行っていた 77~78年当時、PS-1の着水時に機体の破損事故が相次いでいた 強度設計のやり直しが必要となった
秋葉原に電気街が発達したのは、明治40年に電機技術者を養成する電機学校(現:東京電機大学)が創立したのが始まり 電機学校発行の電機技術誌「オーム」が大正11年に独立して電機系出版社のオーム社となり、 電波雑誌の新光社(現:誠文堂新光社)も大正5年から神田で活動したので電機技術者と店が集積した twitter.com/tojo1914/statu…
この展示棚に、思い出のパソコンはありませんか? 16bit、32bitパソコンの展示棚です この展示棚とは別に、倉庫に80年代と90年代のパソコンを、30台から40台ぐらい保管しています 拡張移転しましたら、倉庫に在るパソコンも展示します 遊びに来てください twitter.com/envycattalk/st…
壁一面の「零士メーター」に憧れた世代が創った「模型とラジオの博物館」の展示 椅子もSFに登場する宇宙船のブリッジに在りそうな椅子をイメージして選んでいる 写真には写っていませんが、椅子の両脇に大きなダイヤルが在る「零士イス」も在ります これに座れば「零士メーター」の世界に没入できます
1964年の科学教材社店内 手前のショーケースは鉄道模型を展示 下段はOゲージ 中段はHOゲージ 上段はパワーパックを展示している この時代は、HOゲージの車体キットが500円から1000円で買えた ペーパーボディー車体キットは200円 直線レールは1本140円 小中学生でも、お小遣いで鉄道模型を楽しめた