親支援・大人支援へのアレルギー反応を緩和するために「子どもの貧困」という言葉は作られた。でもその結果、支援の矛先は問題の本質からどんどん逸れてしまった。 貧困の中暮らす子どもはたくさんいるけれど、それは「子どもの」貧困ではない。そろそろちゃんと大人の貧困・親の貧困に向き合おう。
望まない妊娠や性病罹患の背景は様々。それを第三者が救うべきか否かを裁いていたら誰も守られなくなる。しかも泥を被らずに済む高みからの(しかも妊娠するリスクのない立場からの)ジャッジはゴミほど何の役にも立たないだだの暴力です。さらにこのツイートは事実に反し不当に団体を貶めるヘイトです
おかしいって言えるようになった時には、私はもう「女の子」じゃなくなっていた。せめて今「おかしい」と思っている子たちが、今ここで「おかしい」と言える、その手助けはしたい。
自分もいつか「弱者」になるかもしれない 環境が違っていたら自分も「弱者」になっていたかもしれない その想像力が社会を支えてる。人が「弱者になる」要因を個ではなく環境の側に求めることで、社会は発展してきた。弱者を「殺さない」ことで安心と多様性が守られてきた
「だってうちらも人間じゃん」でごにょごにょと幕引きしそうになるのを私がしつこくしつこく遮ったから→
ただでさえ数が減って困ってる子はいるのに。子どもだけじゃない。携帯電話を持たせてもらえない、監視されてる、そんなDV被害者にとっても公衆電話は大切なツールです。誰かの命に関わるものは、経済性の物差しで測っちゃいけない。
ざっくり言うと「農林水産省さんが子ども食堂に高級食材をくれる」という事業に参加するんだが、「食育の専門家が来て子どもと親に食育講演する」と言うのがセットになっててうーんとなってる。高級食材嬉しいけど、みんな食育指導受けたくてうちに来てるわけじゃないし。あと私「食育」好きじゃない
「子どもの貧困」という言葉が広がったのは「大人(親)の貧困」だと自己責任論によって支援への支持が得られないから。子どもには無条件で同情が集まる。それを「子どものため」に利用しようとした結果「応援」の対象が子どもの自助になり、最も必要な社会保障による親支援の拡充は後回しにされていく
いくら給付型奨学金を拡充しても届かない、大学進学が「チャンス」として自分と紐付けられない子たち。その子たちの育つ環境を家庭の文化資本(あるいは地域の文化資本)と呼ばずに何と呼ぶのだろう。文化資本って家に本がたくさんあるかとか親が教育熱心だとか、そういうことじゃない→
お正月の家族だんらん等をSNS(特に限定グループ以外の公開投稿)にアップしている人がたくさん。子どもの顔もバッチリ写ってますがお子さんは了承してますか?「いいよ」と言ってもお子さんによってはSNSで顔が公開されるリスクを充分に理解できていないかもしれません。乳幼児なら同意もできません
ジェンダーギャップについて取材を受けた。女性であることを理由に被る不利益や抑圧や様々な被害について話しながら「男性には男性の辛さがあって」「(女性らしさだけでなく)男性らしさの押し付けもあって」と挟んでしまう。その話はしてないのに。「男性の読者」を怒らせないように振る舞ってしまう
「どうせこの人は聞いてくれない」から何も言わない。   暴力はない。経済的に困窮もしていない。でもDVは支配の構造。自分に依存させ、行動を制限し、無力感を抱かせ、言葉を封じるのは支配。
夫婦(恋人)で相談に行ったのに名刺は連れ合いにだけ渡される。男性と(自分の)買い物に行ったのに男性にだけ名刺渡されて男性に向かってばかり説明させる。おそらく女性なら一度や二度、あるいは数限りなく経験したであろうそれ、すごく「削られる」んです。だから同じことを子どもにしたくない
その人が元教員とかだったりすると「ちょっとはまともな時代になったのかもね令和」と思うけど、同時に現役の民生委員さんだったりすると急速に萎える。昔話を聴いてほしければ別の場所でどうぞ。
生理用ショーツは(各人の主体的な)選択肢ではあっても貧困対策ではないよ。生理用ショーツに限らず「少し我慢してお金を貯めて長く使えるものを買いましょう」という「丁寧な暮らしのススメ」は貧困問題において圧力でしかない。今ここにある痛みと不自由に、誰もが今ここで対処できなきゃいけない twitter.com/shu1tv/status/…
どんな体型でも美しい ありのままの自然なあなたが素敵 そう思うこと、思えることは素晴らしいんだけど、そもそも「他人の容姿や体型をジャッジするな、口出しするな」なんだよね。どんなも美しいもありのままも自然も素敵も「あなたのジャッジ」に過ぎないのだから
産み控えって…「10万円もらえるなら産むか!」ってなると本気で思ってのかな。そしてお金がかかるのはむしろ中学生〜高校生。こんなんより児童手当18歳まで延長・増額・所得制限撤廃をはよ。 >0~2歳児がいる家庭に子育てクーポン支給 「産み控え」解消狙い | 毎日新聞 mainichi.jp/articles/20221…
この落差に、時々眩暈がする。 希望に満ちて夢を語る学生さんたち、その希望に水を差すだろうことを承知の上で、問題に「関心を持つ」という特権とその特権を生み出している構造的問題への眼差しの必要性を説明する。たぶん、彼らにとっては余計なお世話だろうなと思いつつ
実在の人物勢揃いの作品。今なお痛みを抱えながら闘ってる人もいる中でのフィクション化を手放しで賞賛することは躊躇われる。ただ権力が(抵抗の対象となる)パワーとしてではなくまるで幽霊のように描かれ、その曖昧な影に人々が怯える様子はとても「日本らしい」のではと感じた
大抵の場合「これで大学なり専門学校行けるから!」「卒業してから返済だけどだいたいみんな就職できるしきっとなんとかなるから!」とか言われたり、大人からろくな説明なくなし崩し的に借りることにならなかった?それに10代、借金のイメージなんてぼんやりしかない。それを自己責任だと私は呼べない
生産性至上主義の価値観にどっぷり浸かって大人になった私たちが描く個性や幸せが、社会にとって有用でありかつ承認されるという枠を越えることは難しい。「障害があっても」「不登校でも」という「でも/だけど」という接続詞を使ってしまう。子どもの「好き」や「得意」を大切にしたいと願っても、
・不機嫌でコントロールする(けど子どもの不機嫌は許さない) ・取引する(〇〇してほしいなら/してほしくないなら××しなさい/するな) 明白な加害はない、なんなら子どもに「良いこと」してる、けど子どもが家(親)を苦しがって心身に深刻なダメージがある時、かなりの割合で親がこれをやってる
あとここでミソなのは「裕福だ」ではなく「裕福そうに見える」ってことで。外車乗ってたり親がおしゃれしてたり高価なスマホ持ってるとかで「裕福だ」とジャッジしてる。でもそういう「見える」部分ってわりと最後に削られるんです。外から見えない部分、例えば「食」なんかがまず削られたりするんです
ダーウィン事変のこのセリフがまさにそうで。99回の小さく穏やかな「お願い」を聞き逃した、あるいは黙殺した相手がいくら怒ろうが不快になろうが、悪いけど知ったこっちゃないんです