子どもの貧困でもヤングケアラーでも、何年も前から現場で「こういう事例(の顕在化)増えてるよね」と気づいて、手探りで支援を構築して、共有して知見を積み重ねて、訴えて、声の大きな人や組織に届いて世間の関心が集まって、やっと調査や研究が始まって、そんで数年後に「〇〇対応の研修」みたいな
支援職が「支援につながる力のある人」の支援だけでいっぱいいっぱいだと隙間にこぼれ落ちてしまう人たちが見えなくなってしまう。市民活動に参加したり他団体の活動に加わったりできる余裕ある働き方が必要。そして「自力で支援につながれない人」にネガティブな感情を向けないために充分な報酬が必要
思春期だから、反抗期だからって完全に「理由がなく」親に反抗する子ってほとんどいない。必ず親や周りの大人が何かしかの地雷を踏んでしまってる。でも踏んでる方も踏まれてる方もそれが地雷だってわからない。子どもを苦しめる地雷が、当たり前のものとして生活の中に組み込まれてしまってるから
そうなんだよね。もちろん理不尽な悪質クレーマーもいるけどある程度「厄介だな」と思われないと動いてもらえない実態はある。単独では断られた生活保護申請が支援職が同行すると通るのも同行者の力量というより「(断ったら)厄介だ」と思わせるから。当たり前に尊重されれば厄介者にならなくて済む twitter.com/readeigo/statu…
とりあえず、支援を求める人にとって命綱ともなりうる連絡先を奪おうとする行為はすぐにやめてください。その行為は暴力、一片の正当性もありません。
叱ったり注意したりする前に「何があったの?」とひと言声をかけるだけで防げる傷つきや誤解がたくさんあると思うんだけどな。
「こども食堂が無い世の中に!」みたいな投稿がちらほら流れてくるけど同意しない。学校と家との間にふらっと立ち寄れる、枠を超えた関係性が築ける、そしていつもと違う人たちと美味しいごはんが食べられる、そんな場所を願ってこどもたちはやって来る。ただそれは「こども食堂」に限らなくていい→
逆境は言葉と機会を奪う。「当事者の声」を聴くことは本当に大切で、あらゆる活動や制度設計と中心に置かれるべきだけど、人が「声を上げられる」ようになる時は既に「元当事者」であることがほとんどだったりする。特に子どもの困難については。当事者であった人たちの声を中心にしつつ、でも
異次元異次元って転生チート能力もののラノベ読みすぎか。今この世界に生きている生身の子どもたちを見て声を聴いてください。そして「対策」が必要なのは「不登校」に対してではなく学校です。学校復帰を目標にしないには賛成ですがそれだけでは公教育の意義が消滅します asahi.com/articles/ASR1J…
クーポンにしても「こども食堂支援」にしても根本的な課題には触れずに小手先の「わかりやすい」施策がまかり通るのは、仰る通り「チョロいモノ」という発想があるのだと思います。そしてその発想を支えている「子育ては親の責任」という規範意識はまだまだ多くの人の中にこびりついていて、 twitter.com/takebata/statu…
学校が言う「社会は」は、つまりただの「学校は」です。「学校は」の主語では子どもを納得させられないほどの理不尽と不合理があるから「社会」というより強くて大きい主語を持ち出して圧迫する。社会のせいにしないでほしいわ。
子育てに理念なんて持ってないし自信なんてあった試しがないけれど、娘氏が私と違うものが好きで、違う考えに惹かれて、想像もしなかった夢を持ってて、私の言葉に「そうは思わない」と返して、私のしたことに「嫌だ」と言って、ちゃんと不機嫌になってくれると、間違ってなかったんだなぁって思える
担任との進路相談面談を終えた娘氏。「なぜ大学に行きたいのか」と問われて「え…その学問を深く学びたくて最善の環境を選んだからですが?」と答えたけれどどうやら「卒業後に何をしたくて大学に行くのか(職業)」が期待された答えだったらしく釈然としていない。「私は無目的にただ学びたいのだ」と
15歳の女の子を「要保護」としながら矢面に立たせて、大人は誰一人(今のところ)責任を取らない。キスクラでいったいどんな言葉をかけたのか。なんともモヤる終わり方。20年近くスケオタやってるけど特に平昌以降の女子フリーを見て辛くなることがしばしばある。女の子を搾取する世の中を映す鏡みたい
性自認が揺らいでる子どもたち、その違和感には「私は(身体の性とは違う)〇〇かもしれない」だけじゃなく「〇〇でありたくない/〇〇であるのがしんどい」があったりする。身体の性別によって周囲から受ける眼差しや期待や抑圧のしんどさ、その性別を持つ他者の言動に感じる違和や嫌悪
「愛着障害」ブームにはうんざり。医師の診断が絡むことはほとんどない。SCやSSWや教員が放言する。診断ではない、見立てです」と称して。そうやってその子がそこに居づらい環境的要因は黙殺される。アタッチメントが愛着と訳され、それが現場で愛情に変換され、全ては親の愛情不足に還元する
愛とか思いやりとか、計測できない尺度なんて信用ならないよ。家族であっても恋人であっても友人であっても。大切なのはその人があなたに何を言ったか、どう行動したか。それだけ。
「当事者の声を聞こう」と言いながら「誰が”当事者”かは私が決める」って態度の支援者・活動家がわりといるなぁと
対人援助職がインフルエンサーを目指す必要はないと思う。目指してしまうと使う言葉はどんどん「ウケる」ものに変質してしまう。たとえ意図していなくても。わかりやすくインパクトのある言葉は何かが削り落とされていて、その過程で私たちが本当に言葉を届けるべき人たちを傷つけるものに変わっていく
子どもは親の介護要員ではありません 親権は子どもの将来を縛るものであってはなりません twitter.com/KushidaOf/stat…
自分が少しでもコンディションを崩すと私自身の中に妙な欲求(褒められたい感謝されたい)が生じてしまうことを痛感し、今はきちんと自分にも報酬を払ってます。と言ってもほんと微々たる額ですし自分に払った分の多くは団体に寄付でしてバックしてるけど、それでもちゃんと報酬が発生する仕組みは大切
ちょっと違うなぁ、と。「これ以上の豊かさはいらない」という若者たちの全てが私たち年上目線の基準で「豊か」なわけじゃない。豊かどころかむしろ困窮寄り、モノもお金も大して持ってない、みんな一律にじんわり貧しい。「これ以上の(物質的金銭的な)豊かさ」のモデルが身近にない。だから望まない twitter.com/fromdusktildaw…
スポーツと体育は別物。体育(学校)を通じてスポーツを「好きにさせる」のはただの抑圧にしかならないと思う。それに嫌いだっていいじゃん。
津波も原発事故もなかったけれど、コロナ禍ですでにHPが削られた中での地震でした。私たちは、私たちが「感じる」以上にダメージを受けているかもしれません。もちろん子どもたちも。   しばらくは自分を、家族を、子どもたちをちょっと甘やかしましょう。甘々がちょうどいい時です。
この視点ほんと大切。これを欠くと「善きこと」 によって構造的な不均衡や暴力はむしろ温存されてしまう >>社会の大多数に髪の毛が生えているから、マジョリティー側の人たちに、マイノリティの人が自分を寄せていかなければならない。この社会は非常に歪んでいますよね laundrybox.jp/magazine/hair-…