私たち「支援者」だっていろんな困り事を抱えてる。自分や家族に病気や障害がある、子が不登校、DVがある、低賃金でお金ない、借金がある、物質に依存してたり言えない過去があるetc.でも目の前の人からは「ちゃんとした仕事をして安定した生活を送ってる人」に見える。その眼差しは常に意識している
子どもたちから「しんどさ」について聴いたとき、その子個人のエピソードを汲みながら、できるだけ「それはシステム/構造/その運用者に原因があるかもしれない」という視点を共有するようにしてる。直接的でなくても。でないと人は辛さの原因を弱い者に向けてしまい、やがて差別やヘイトになるから
そもそも強制があかんというのは大前提で。毎日毎日2時間以上興味もない好きでもない得意でもない活動に奪われかつ成果を求められるのはのは苦痛に過ぎない。生徒が選べるメニューを用意できないなら強制をやめるべき。子どもの時間を子どもに返してあげてほしい。そして先生の時間も先生に返そう。
「自分で選んだのだから簡単にやめてはいけない」と大人は叱るけれど、自分で選んだからこそ自分で「やめる」を選んでいいし、そもそも大抵の子どもにとって学校も部活動もその他も選択肢はとても限られているのだから、自分で選んだも何もないよね
「本当に困っている人探し」をしてたらやがて誰もいなくなる。そもそもそんなことをする権限は誰にもない。だけど「本当に困っているようには見えない人」はいる。逆境は困っている人を「困った人」にしてしまうことがあるから。その場合お金や食料だけでない、他のレイヤーの支援が必要だったりする
トラウマの反応はたとえ「今ここ」が安全でも身体と心が過去に戻りその時間軸のズレで起きる。回復は「今ここ」が安全だと実感できること。そのために事実今ここが安全でなきゃならない。支援者はトラウマをどうこうする前に今ここが安全か=金と家があるか危害を加える人がいないかに気を配ってほしい
現地の女性たちはきっと、平和な国で戦争を自論の肉付けにして悦に入る人たちとは比較にならないほどの痛みを背負っている。私も安全な場所であれこれ言うひとりだけれど、彼らが背負う痛みを想像し、連帯の方法を探すことはできる。そうしたい。
娘の友だちがデートDVの被害に遭い相談を受けた。葛藤するその子に「愛されるというのはあなたが違う意見や価値観を持っても、望まない行動をしても、それを認めるということ。自分と違う存在だと認めないのは、愛ではなくただの支配と執着だよ」と伝えた。 という夢を見た。寝た気がしねぇぇぇぇ
あなたにとっての「わかりやすい、イメージ通りの貧困」の枠に入らない人たち・子たちを排除し続ければ、もしあなた自身が何らかの困難に見舞われた時に「全ての人を納得させられる、困ってる人らしい見た目や振る舞い」をしなければ支援を得られなくなります。それ、とてもしんどいよね
「通常学級がダメなら特別支援学級に行けばいい」と「学校がダメならここに来ればいい」は繋がってる。同じ。 「選べる」はずが「選ばされる」になってる。今は「分ける」に全振りしてるリソース(まず人と資金)を今後は「共に」が前提での「選べる」に回していくことが必要なんだと思う twitter.com/akinaln/status…
「ここに居られない子の居場所を作る」という名目で排除の構造が温存されているのは、特別支援教育も不登校も同じ。「分ける」がいちばんコストが低く済むから。とにかく教育にもっと人を、つまりたくさんの人が安心して働けるための予算を。
『グレイスイヤー』 駆け抜けるように読了。侍女の物語や誓願のような「置き去りにされる快感」からの圧倒的巻き込まれ感ディストピア小説。ちょうど今思春期をテーマに文章を準備中で、色々とリンクする。ちょっと乱暴になるけれど、私は(女の子の)思春期は幻想や迷信だと思ってる。それこそこの→
これはガチ。日本の変身系番組は「ダメなあなたを変える」だけどファブ5は個人だけでなく環境と関係性に働きかけながら「変える」ではなく「変わる」を助ける。自己価値観を損なうことなく水が流れるように自然と変わる。有機的に作用する多職種連携。差別等構造的問題を軽視しないソーシャルワーク twitter.com/akatachikako/s…
苦しみが深まるほど「声を上げる」ことが難しくなる、それは事実の一断面。でも全てじゃない。「声を上げている」人たちを「本当に困っていない」とジャッジすることは誰にもできないし許されない。他でもなくそのジャッジメントが当事者の言葉を奪いってきた
これ以上入試や就職が「経験」軸に偏れば、「価値ある立派な経験」とジャッジされるなにも留学とかインターンとかコンクールや大会への参加とかボランティアとかキラキラ・社会貢献系の活動だけじゃない。いじめや困窮や病気や家族のケア等の逆境を乗り越えた!というストーリーも大人の好物だから→
毎年このアンケートから分かることは「不登校の要因」なんかじゃない。学校がいかに子どもの声を聴けていないかということ。聴ける場所になっていないということ。だから具体的な対策(いじめ・ハラスメント・ヤングケアラー等家庭要因の場合の福祉的支援)につながらない。そりゃ増えるよ、不登校。
直接的間接的にいろんな学校さんと関わってるけど、不登校が少ない・いない学校って「不登校減らそう!」と前のめりで取り組んでるより ・学級の枠が緩くて生徒が枠を超えて場所や関係性を作れる ・複数の教員が学級に関わる ・教員同士話し合う機会が多い がナチュラルに定着してるケースが多いなぁ
トラウマ・インフォームドな見方は「好きで不幸になってる」ように見える当事者が自分の色眼鏡に気づき外すのを助けるし、その周囲の人が安全な距離と境界線を維持し自分を守るのを助けもする。「トラウマ」は支援を生業にしているか否かに関わらず、誰にとっても今いちばん必要な「気づき」だと思う
こどもがまんなかだったのに「家庭」が出てきてこどもをはじっこに追いやるの、ほんと「こども家庭庁らしい」って思いました。名称決定のプロセスそのものですね。「まんなか」じゃないじゃん twitter.com/KodomoKatei/st…
「学校に行かないこと」と引き換えにもっと高い期待や要求をされるのはしんどいなぁ。「不登校なのに〇〇で活躍」を求められる。学校しんどくて、行かなくなって、でもその代わりにもっと高い期待や要求を(明白にであれ、暗にであれ)提示されて息が詰まりそうになってる子、増えてきてる気がする
置き去りにしているからです。私が置き去りにしてしまっている、排除してしまっている人たちを支えている人たちがいる。彼らとの連帯は私たちにとって必要なことであり、むしろ責務だと考えます。トランスジェンダーの方からの避難希望、入居希望の問い合わせにお断りをしながら、彼らが使える資源を→
当県で開催された「SDGs博」のニュースを読んだ。環境、ダンス、食、復興… 貧困や差別、ジェンダー平等といった言葉はどこにもない。「みんなが不快にならないきれいなテーマ」でその「みんな」から排除されている人たちの困難、構造的問題を塗り潰す。ある意味とっても日本のSDGsイベントっぽいなと
「支援」に繋がることは難しい。自ら支援を避けるようなことすらしてしまう。だって自分にはその価値が無いから。支援に繋がっても、その時点であたり一面焼け野原、周囲にダメージを与え、自分もひとりぼっちになって、燃えかすになってしまっていたりする。かつての私がそうだった
こども食堂は貧困対策じゃないし貧困対策にしてはいけないと繰り返し言ってるけど、やってくる子どもたちの声を聴き続けていると子どもを取り巻く様々な「政治の問題」に出会う。困窮もそのひとつ。だから私は政治に注文する。「政治には目をつぶって良いことだけしていたい」は、私にはできない