願いが実現する手応えを感じた経験に乏しく「今ここ」の安全も危ういと、夢や目標を「第三者に応援してもらえる」言葉にまとめる作業は難しいししんどい。でも大学に行きたい、学んで何者かになる手がかりがほしい、そんな子たちがただ「行きたい」という理由で入試にチャレンジできる社会がいい
子どもが不機嫌だったり、むすっとして部屋に閉じこもったり、問いかけにきちんと答えなかったりするとつい「その態度はなんだ」などと叱りたくなるけど、実は子どもなりに自分の中のイライラやもやもやを必死に押さえ込んで、外に出さないように最大限頑張って対処している最中だったりします
経験が活かされるのは「全く同じ経験をする人なんてどこにもいない」と「目の前の子どもはかつての子どもだった私とは別人」と「私はもう子どもじゃない」の3つがしっかり軸になっている時だと思う。どれかひとつでも揺らぐと、今ここにある声が聴こえなくなる
福祉、そしてあらゆる「善きこと」に通じる記事。むちゃくちゃ刺さる。   >圧倒的マジョリティーがマイノリティーに対してウィッグが必要だという無意識の押し付けになっているんじゃないのか >一生懸命髪の毛を伸ばして「私はヘアドネーションをしました、いいことをした」は本質的な解決ではない twitter.com/laundryboxjp/s…
一度逆境的環境に置かれると、そこから抜け出すために学力や自己表現において「そうでなかった子たち」よりもずっと高いレベルを求められる。チャンスを広げる目的で、厳しい要求と競争が課されている。そしてお金の不安が解消されなければ、入試にすらチャレンジできない
子どもとお母さんには最初からタメ口なのに、お父さんが出てきた瞬間に敬語になる治療者に度々会う。大抵が男性の臨床家。 距離の近さ云々の前に、基本的な礼節について問題にしてほしいよ
お子さんが不登校になると相談に来るのはたしかに「お母さん」が多数です。ひとり親家庭に限ったことではなく、それだけ子育ての「責任」という負荷が女性に偏っているということ。だから「お母さんの」と名付けたのかもしれませんが、責任と負担の不均衡を前提とする=肯定していようで残念です twitter.com/yuhei050723/st…
勇気だの感動だのを届けられても誰も救われない、誰も幸せになれない、そもそもそんなの届かない、そういう世界線で生きてます。
自然発生的で身体反応である感情そのものを「コントロール」しようとすると苦しくなる。それは抑圧と同義で、どんなに抑圧しても感情は消えない。それどころかむしろどんどん大きくなる。でもどう表すか、行動は選べる。
「子育て世帯に支援を」とか言いながらその気がさらさら無いのは、「子どもの貧困対策」を基金任せにしてこども食堂とかににちゃらっと補助金出してお茶を濁そうとしてる姿勢から明らか。何年も前からそう。私たち子育て世帯こそ限定給付を許しちゃいけないと思う。#一律給付金は国民全てに
「居場所づくり」とか「居場所をつくりたい」ってつい私も使っちゃう言い方だけど、やっぱ嫌だなぁと。居場所は作るものじゃない。他者が勝手に作った枠に誰かを押し込めてもそこが「居場所」になるわけじゃない。居場所は作られるものじゃなく、人と空間の有機的なつながりのなかで「なって」いくもの
若者の困窮は深刻。でもなぜ若者が困窮するか。彼らを育てた世代が困窮しているから。困窮が世代を超えてじわじわ拡大している。日本の政治は富を持つ側に向いている。若者だけじゃない、持たない中高年の側には向いていない。高齢者の困窮も相変わらず深刻だ→
職種職域を問わず対人援助従事者が安定した(生活に不安なく、充分に休める)収入を得なきゃいけないのは、収入が不安定だとその穴埋めに対象者の行動や生活を管理し感謝や賞賛を要求するようになる危険があるから。支援と支配は表裏一体。支援を支配にしないために必要なのは倫理よりまず安定した賃金
対人支援を生業とする人がきちんと充分な報酬を受け取ること、きちんと休息をとり、好きなことを充分にやること、これは本当に大切。「仕事のために生きる」は誰にとっても良くない。でも特に対人支援職にとってはいちばん避けるべきものだと思ってる→
外の冷たさ、わかる。中の過酷さ、わかる。その現場にいたから。だからこの暴言が「本音」な医療従事者が実は多いのも知ってる。でもさ、あなた一介の従事者じゃないでしょ?会長でしょ?国動かして労働環境変えて地域を耕す、その機会を生む力=権威を何年も持ち続けてるんでしょ?何してきたのさ? twitter.com/tokyonewsroom/…
いじめや差別、虐待によって「才能が潰されてきた」人たちも山ほどいるんですよ。 twitter.com/attorneyatlawe…
風刺は権威をいじってなんぼ。たとえ直接的な差別表現でなくても、社会的に虐げられた人たちをカジュアルにネタ扱いして消費するのはただの二次加害。被差別者を消費せずともエンタメは充分に成り立つ。それなのに「わざわざそれを選んだ」のはなぜなのか。軽率のひと言で済まされる問題ではないと思う
10年前は「放射能に負けるな」 今は「コロナに負けるな」 どっちも好きじゃない。線量に不安を感じた人は「負け」たの?感染症に罹患した人は「負け」たの?勝ち負けは強弱を想起させる。不安を抱く人に「それはあなたが弱いから」というメッセージを(意図しなくても)送ってしまう
映画、美味しいごはん、ただ楽しい時間、好きに没頭する時間…(何らかの困難を抱えた人が)そこにお金や時間を割くことは罪であるという価値観が根強い限り、むしろ人の「自立」は遠のくし、この国はこのままゆるやかに衰退していくと思う。
TwitterはTwitterで地獄みあるけど年末だしと久しぶりにfacebook開いたらリアルで会ったこともある知り合いが差別的な投稿してたり詐欺くさくて安っぽい起業系セミナーの報告とか女子キラキラ起業!子宮!宇宙!女神!とかがいまだに蔓延っててそっと閉じた。あっちもなかなかにつらみ
私たちは自分の人生しか生きられないわけで、つまり78億分の1の生き方しか経験できない。子どもが自分と違った生き方を選ぼうとした時、たかだか78億分の1の生き方しかしていない親がその軸で正解だの不正解だの成功だの失敗だのとジャッジできるはずがないんだよね。
子どもが有名大学に入ったり特別な功績をあげると子ども本人よりも「〇〇大学に入れた親(ママが多い気がする)!」みたいに親が注目されるの、好きじゃないなぁ。まずその子の個性あってのことなのに、それがすっぽり消されてる。その記事読む大人(親)にも子どもにもポジティブな影響は無いと思う
「かつて子どもたった経験(当事者性)」は「子ども支援」において重要な内的リソースだけれど、「でも今は大人である(当事者ではない)」という軸を持ち合わせていないと目の前の子どもの権利を(非意図的に)侵害することになる。「今ここ」を生きる子どもたちは、かつて子どもだった私じゃない
同じように感じてる人がいてホッとした。過度なストレス、自己犠牲的な母親、胸が苦しくなる。学ぶって本来は楽しいもの。大学選択のために学力や適性をはかる必要はもちろんあるけど、子どもをこんなに痛めつけるシステムは不要だと思う。それを感動話に仕立てて商業利用するのもいやらしくて twitter.com/EcoG20/status/…
心から同意します。児童館(児童クラブ)の機能を削り、人を削り、予算を削り、なのに「サードプレイスとしての子ども食堂」を押すのは本末転倒です。私たちこども食堂は「隙間」にあってこそ意味があるんです。 twitter.com/d_furicado/sta…