ヘイトクライムについて毅然と反対するメッセージを出せず、差別に対して明確に反対することもできない政府が、奪われてよい命などひとつもないことを振り返る日であるはずの今日この日に死刑を執行した。言葉と記憶を掠め取るかのように。とても、とてもとても悔しい
「聴衆の多くから」の「多く」にジェンダー格差が命に関わる問題となっている私たちが入っていない。まずは「マジョリティ」のご機嫌を取ってから。いつもそう。 twitter.com/ryuichiyoneyam…
教員は社会を知らない、なんて雑なことを言うつもりはない。それを言うなら私だって私が経験するごく狭い「社会」しか知らない。でも教員が「一定以上の生活水準で生育した人が多数を占める集団」であって「学校という環境をサバイブできた人の集団」であることは事実で、その事実の共有は必要だと思う
私が13歳の時、そして14歳の時も、15歳も16歳もそれはそれは未熟だった。自分の安全も権利も、それが侵されることも理解してなかった。でも、私がかつて未熟で無知でたとえ「意見」なんて持っていなかったとして、目の前の子どもが同じとは限らない
とか言う私も昔は許可なしに(知人のみの限定公開ですが)上げてしまってました。高校生になった今はしっかりNOかYESを言ってくれますが、それでも基本姿勢は「NO」にしています。知ったから、気づいたからやめました。だから知ったら、気づいたらやめませんか?
不機嫌で他者をコントロールする大人がかつて身近にいたせいか、今も大きな足音やドアを閉める音を聞いたり話しかけても返事がないと心臓がバクバクして手に汗をかいてしまう。そして「不機嫌で他者をコントロールできる」ことを学んでしまったので、自分も子に対してそうしてしまうのではないかと怖い
かといって、今が「地域で子どもを見守る」社会になったかと言ったらもちろんそうではなくて。「繋がり」はたしかに希薄になってる。でも人権意識を欠いた中で「繋がり」だけ密になっても、イコール子どもを守るにはならないよ。
引き続き通報を続けます。ほんとこの愛着→愛情→愛着障害は愛情不足が原因→特に母親の愛情不足→インターネットが悪い→ついでに発達障害増えたのもゲームとインターネットのせいという流れ、教育現場のウケが良くて良くて。で、その先に「伝統的な子育て万歳」が待ち構えているですよ twitter.com/shimpei_kudo/s…
なるほど、そもそも予算が組まれてないと。ダメじゃん。そこはぜひ保健衛生にかかる予算を増やし、女の子の健康に直結する生理用品も基本設置の備品としてください #文部科学省 さん、#厚生労働省 さんも twitter.com/marikakonosu/s…
話を聴くって難しい。すごくすごく難しい。技能的な問題だけじゃない、ジャッジしたい欲求、「専門性」を評価されたい欲求、早く答えが欲しい欲求、いろんな欲が邪魔をする。欲は不安の裏返し。難しい。でも大切。だから踏ん張りたい。
困窮者支援なんて知らん 国民を連帯させたくない 対象限定・半分クーポンから政府のそんな本音が透けて見える。対象限定し「ずるい」という気持ちを刺激する。分断を誘って批判の矛先を分散させる。クーポンは受給者へのスティグマになり必要な支援は更に遠ざかる。もちろん現金給付は限りなく小額で
子どもたちにあだ名や呼び捨てを禁止する前に、教師が生徒を呼び捨てするのを禁止してほしいんだけどな
団体の体力的にこれ以上の事業拡大は難しいですし、男性からの暴力、性被害に遭った方、女性であるが故の差別や困窮に苦しんだ方に安心して暮らしていただけることが何より大切だからです。だからこそ、私は性的マイノリティへの差別に反対します。私たちの活動(シェアハウス)は彼らを→
「この病気なら○○できるはずがない」「本当に辛い人は他にいる」 他ならぬケアを行う立場の人たち(精神科医や心理士/師)の中にそういった発信を行う人たちが散見される。「社会」からのその眼差しが、他ならぬあなたたちの目の前にいる人を苦しめているのに。加害的な空気作りに自ら加担している
「ソーシャルグッド」とは言っても、社会の理不尽や不合理を暴き批判し変えていくアクションよりも、差別や暴力の構造はそのままに「そんな社会の中でもキラキラ生きてる人応援」って活動に関心の比重が偏ってるように思う。ざわつかない、不快にならない、そんなものを見ていたいのは自然な欲求だけど
支援の対象者に対してイライラしたり、言う通りにさせたくなったり、話を遮ってしまったり、叱責や反論をしたくなったり、そんなことが増えた時。それはあなたがダメなのではなく、多分疲れてます。必要なのは自分を責めることではなく休息です。休も
「トラウマだ」って気づいた時から変われる。たくさん失っても、そこからまた新しい関係性や生活を構築できる。でも失ったものは取り戻せない。トラウマを癒すことよりも、トラウマによる色眼鏡をかけて生きていく中で誰かを傷つけてしまった、その痛みを癒すことは難しい。だから気づきは早い方がいい
・未発覚のいじめ ・経済的問題 ・合理的配慮が受けられない ・厳しい部活の指導 ・理不尽校則と理不尽生徒指導 ・月経困難症 ・統合失調症の初発 ・セクシャリティ/ジェンダー関連の生きづらさ ↑学校で不登校や「問題行動」を愛着障害と「見立て」られたけれど実はこうでしたという一例
まず私たちが汲まなきゃ、です。もちろん自傷が深刻だったり他の症状・行動がある場合なんかは速やかに「つなぐ」が必要だったりするから丁寧な評価はマスト。でも「死にたい?なら病院に行こうか」と直結させるのは、その子がやっと伝えてくれた死にたいという言葉をたらい回しにするだけです
私も現場で、同じような「少しの逸脱」で家庭の中で苦しんでいる子どもたちを支えてきた先生方に出会ってきました。たしかにそれが必要な時はあります。でもそれはその時他に方法がなくて、やむを得ず選ばれた手段であり、そしてたまたま良い結果になっただけのことです。その先生たちの行いは→
「子ども支援」してると「子ども好きなの?」と訊かれることが度々あるけど、子どもを中心に支援するのは行使できる権利が最も制限され、故に最も搾取される存在だから。好きか嫌いかなんて関係ない。そもそも「子ども好きなの?」って質問自体が大人と子どもとの非対称性を表してる。それが支援の理由
私の講演を聴いた高校生が福祉や心理の道を目指してくれてその動機がただ困ってる人を助けたいではなく「制度の隙間という構造的問題の犠牲になる人を置き去りにしない新しいシステムを作りたい」とかだとすごく嬉しいけどそれ以上にその問題を君らの世代にまで残してしまって本当にごめんってなる
「学校ムリでもここあるよ」はいいけど、「学校ムリならここがあるでしょ?」は危うい。そして両者の境目はとっても薄い
ただ言葉を選ぶ、自分の言葉に責任を持つ、石を投げられた痛みを想像する、そして自分が投げた石はいずれ自分に投げ返されることを知り、投げ返された時に自分がどう振る舞うかを考える。それは必要なこと。
家がない(家が安全でない時に避難できる住まいがない、公営住宅入れない) 仕事がない(あっても安心して暮らせる給料じゃない) 学校に行けない(学校つらい) これらには手をつけず「(第三の)居場所」だけ増やそうとするの、どう考えてもおかしい