そこじゃない。本当にそこじゃない。問題は小学校入学時に子どもに課せられた要求が既に高すぎることにある。だから子どもも教員も疲弊するし、入学時に「座って集中して学習する」ことが困難な子は早期発見の名目で「(発達障害の)診断をもらう」ことが求められる news.yahoo.co.jp/articles/bf08e…
性暴力はなかなか語られない。戦時下の性暴力は、なおさら語られない。恥ずべきこととされ、不名誉なこととされ、誰も聞きたがらない。だから記録に残りづらい。私たちの目に触れない。でも事実そこにある、重大な被害
サッカーという競技はそもそも移民や格差といった様々な問題を内包するスポーツ。「サッカーに集中」なんて簡単に言ってしまえるのがまさに「そういうとこやぞ」と
もちろん学生が関心を持つのは悪いことじゃない。大切なこと。でも当事者性から遠い場所にいるからこそ社会問題への関心を持てるという構造は、「無関心」とはまた違う危うさを内包していると思う
対人援助職に「向いてる」人なんていないしむしろ「私は向いている」と信じてる人ほど危ういと思う。ただし「向いてない」のはどんな人かわりとはっきりしてるんじゃないかな。例えば「私は絶対に差別なんてしない」と言い切る人、世の中の動きや政治に関心がない人、感謝されたい人、
仕事してて「楽しい」って思う瞬間は確かにあるけど、それって大抵「思い通りにいった」時で。その心地よさにハマっちゃうと「思い通りにいく」ことを対象者に要求するようになって歪む。楽しい時ほど注意が必要。そんな因果な商売、続けるのはただ必要だから。それ以上何もない、何も求めてない。
だからわざわざ言わなくていい。言うとしても「相手はこの言葉を望んでるな」という確証の持てる相手と場所に限った方がいい。で、そういう関係性や場所を築くために容姿や体型の話題は必要なかったりする
オフライン環境で苦しんでる子たちと少しでも繋がるためにスクールソーシャルワーカーというポジションに居続けてる。フリーランスの立場ほど柔軟に動けないけど「公」でないと介入できない事案は少なくないから。団体の運営・フリーの活動との両立はなかなかしんどいけど、どれかひとつ欠けてもだめ
みんな、小さな罪を重ねてる。   不完全な罪人が互いに「それはダメだよ」と言い合えて、この社会は前に進んでいく。品行方正で清廉潔白な人だけが誰かを裁けるのだとしたら、この世の全ての過ちは誰からも裁かれなくなってしまうよ。過ちを犯さない人はいないのだから
何らかのハンデを背負う人の苦痛や困難だけでなく、強みや魅力を伝えるのは決して悪いことじゃない。でもそれが「キラキラしたとこを見せてほしい」というマジョリティ側の欲求に応えることを目的にしてしまったら、それはただの消費であり、搾取
全然周知されてないよねこれ…命に関わることなのに
数冊の本が彼女の無邪気な楽しみを奪った。でも奪ってよかった。本人も奪われてよかったと感じている。 それが多分、知るということ。
親の仕事って、親の許可なく行動することを許さないことではなくて、親の知らない場所に行ってもそこが安全か否かを判断できる力を育てる・自分にとって害になりそうな場から離れる力を育てることなんじゃないかな。大切なのは「自分が傷ついた経験や傷つきそうになった経験を秘密にしないで済む」関係
同じ行いで子どもを苦しめることがあり、そして搾取目的で同様の行いをする悪質な例も存在します。逸脱に対して「良い教師の行い」というラベリングをすることは、苦しんでいる子たちの口を封じることになってしまいます→
だから大人は笑顔や感謝のリターンがなくても、ただすべきことをしようね。様々な面で子どもより力を持つ大人として、そして子どもを抑圧し貧しくした世の中を作った大人として、ただすべきことを。
こども家庭庁絡みで子どもの「孤立予防」を目的とした「第三の居場所」を増やそうという動きがあり私たちの団体もヒアリングを受けましたが、このように大人が守られない働き方が再生産されてしまう懸念を抱いています。「孤立しない」はただ周りに人がいるという状態を指すのではありません→ twitter.com/motz33/status/…
(承前)これ「こども食堂」にも同じことが起きてると感じてて。目の前の人の・当事者の声と必要性から草の根で始まった活動に対してどこかから「コーディネートしますよ」と言い出す人たちが現れて組織化されて謎に大きくなって色々と歪んだ。お金の流れも含めて。
好きな土地に住めず他人が家の中に入るのを拒めず進路が限定される等、生活保護を受給すると様々な制約を受けることが実態となってる。その実態について権利侵害の文脈から批判・検討されてこなかったのは「支援と引き換えに制約を受けないと自立しない」という思い込みが根深いからだと思う
エビデンスのないなんとかセラピーのセラピストを名乗って「発達障害を治せます」と言う人からたまにFBフレンドリクエストが届くのだけどTLを覗くと似非科学やら陰謀論界隈との繋がりが濃厚な上にプロフィールに公立学校で特別支援敎育支援員やってますとかあって、なんかもうなんだかなと
いつかな。公共の場だと、例えば電車の中だったりすると、いつもより多く娘を叱っていることに気づいた。静かにしなさい、おとなしくしなさい、と。周りから非難されないために些細なことで先回りして叱っていた。周りの攻撃から娘を守るためだった。でも私が抗うべきは周りからの不当な攻撃だったんだ twitter.com/W7u8NXx595mJBu…
「生きづらさ」を抱えた人が「生きづらさを生きていく」と言うのはあり。それもひとつのコーピングだから。「生きづらさ」というキーワードで連帯もできる。でも国がそれを言っちゃおしまい。生きづらさは構造の問題でそれは権威によって温存されている。構造の問題を率先して矮小化するな、ということ
あと生活基盤が安定してないと良い相談支援はできません。安心して働けないから。もちろん「適正な額」はあるだろうけど、無報酬や最賃程度の自己犠牲的働き方が褒められていいわけじゃないし誇らしいわけじゃありません。
好きで不幸になってるように見える人からはみんな離れていく。どんどん孤立する。自分で自分のことが嫌いになる。そして「自分には価値がない」という眼鏡の色はどんどん濃くなって、行動は自滅的で周囲も自分も傷つけて大切なものを失って貧しくなっていく
結果として「子どもを助ける」ものになりました。ですが家に呼んだり泊めたり食事や物を提供したりプライベートで行動を共にしたりという行為は「良い教師の行い」として一般化されて良いものではありません→
そもそも「昔」っていつなんだろうって思う。その人のイメージの中にしかない時間軸なんじゃないかな。今よりも人権意識低くて家父長制バリバリで子どもや女性を虐げるのがずっと当たり前だった「昔」しか、私は知らないけどな。