「マイペース」をゆるされた結果の「男の子後伸び論」がどれほど多くの女の子から機会を奪ってきたか。教育者を名乗るなら当然ご存知のはずではないでしょうか。
子どもの判断と意思は尊重されるべき。ゆえに、大人の欲のために利用されてはいけない。だから大人の行動を制限する必要がある。そのための年齢引き上げだと思う。大人だって間違える。子どもも間違える。間違えることは、意思や判断が「できない」という理由にならない
そして基本的にまだまだ男性優位。女性の従事者は多いのに、権威は男性に集中している。   「対人支援職なのにまさか」でも「対人支援職にかぎって」でもない。「対人支援職だからこそ」の視点で性加害事案を振り返り、抑止していかなきゃならないと思う。
メンタルヘルスって「こころの健康」が損なわれているというよりも「日常生活の中に不健康さ(困窮や暴力や抑圧や搾取や理不尽)」があってその影響が「こころ」に出ているんだと思う。だからカウンセリングルームや診察室の中だけで治療が完結するはずない
そもそも今の日本、学校教育からエンタメから産業まで   感動>>>>>>>>思考   になってる気がする。既に感動飽和状態。感動が批判的思考を薙ぎ倒し刈り取ろうとしてる。   危ういと思う。
「諦めず助けを求めてください」と言われても、願いや要求を拒絶され否定され自分の話なんて誰も聞いてくれない誰も助けてくれないって信じてしまう体験の蓄積で現在の困窮があるわけなので、助けを求めるってハードルがまず高い。困窮する人に「助けて」って言わせるのは(国として)恥ずべきことだよ
何を書いても火に薪をくべるだけ、火の粉が自分にも降りかかりかつ様々な価値観の対立が起きている中で、意見表明を避けている支援職も多くいるかと思います。ですがこのツイートには価値観や立場や職種を超えて、特に若者・子どもの支援に従事する人たちは明確にNOと意思表示すべきではないでしょうか
虐待や経済搾取を受けて諸事情で新制度が利用できない子たちが使える奨学金等を調べてるけど、どこも将来の夢や大学での目標をかなりのボリュームで具体的に書かなきゃいけないのなかなかしんどい。安全が守られ「やりたい」が実現できた、そんな機会が乏しいと「未来」について書くのは難しいしキツい
「貧困の子どもたちのために子ども食堂増やしましょう」と同じくらい姑息。同じ政府がやってるんだからそうなるのは当然の帰結かもしれないけど。どうあっても当事者に直接届くお金の流れは作りたくないらしい
大学進学が全てだ思わないし、多様な選択があっていい。スキルを身につけて早くから働いてキャリア積むのもあり。高校で、あるいは中学で「これだ!」って道を見つけたらそのまま進めばいい。なんとなく大学に行くのだってあり。どの道を選んでも不利益を被らない、誰からも搾取されないことが大切
「子ども食堂を始めたのに想定していた貧困の子が来ない」というぼやき投稿をちらほら目にした。子どもの困難は貧困だけじゃない。そして貧困は見えにくい。あなたにとって「想定どおりの貧困の子」を探し続けたら、誰もいなくなる。そして「本当に困ってる人探し」は私たち自身を苦しめることになる
お願いだからさ、そろそろ「今生きている子たち」を幸せにする政策をきっちり出してください。今生きている子たちが大切にされない世の中で「これから生まれてくる子どもたち」が大切にされるわけないんだから。
「保護施設に入ってるなら生活保護いらない」というリプいただきましたが誤認です。民間のシェルターにはいろんな運営形態があります。例えばうちはシェルター事業はどこからも委託・助成を受けてないので運営費は完全に持ち出しです。で、家賃は家主さんのご協力でタダですが水光熱費はかかります→
5000円近くするもので『生理の貧困』対策なんてありえない(その5000円のために今必要なものを後回しにしろと) 女性が「使用せざるを得ないもの」をゴミ問題と絡める上から目線 洗う負担への無理解 それらが全て男性だけのチームから出てくるグロテスクさといったら。生理はビジネスチャンスじゃない
支援の現場で「家族の絆」なんて言葉が出てきたら、それは支援者の思考停止や無策、役割放棄のサインです。一国の首相の場合は、どうだろう。
そして困窮する人から声が奪われる。福祉が痩せ細る。世の中はより生きづらくなる。そもそも子どもを個とみなさない、親の生活状況や所得で子どもが受けられるサービスが制限されてしまうというのは福祉サービスの弱点なわけで、そこに「子どものために」を掲げる事業が乗っかってしまうのは残念に思う
怒り抗議するのは、苦しいから。不当な扱いと暴力があるから。それが我が身や関係する人たちに及ぶ恐れを感じるから。 「分断」はあなたたちがいる場所とこちら側との間に既にあります。私にはそれが見える。そちらからは見えてますか?と問いたい。
追記。そもそもこども食堂というシステムは「貧困対策」になり得ないわけで。しかしながら子ども食堂と貧困対策とを紐付けしたのは他ならぬこども食堂(を増やそうとしている)側で、その結果貧困のステレオタイプ化や貧困に見えない子の排除、スティグマの強化が進んでしまうとしたら本当に悩ましい
女だから大学なんて 女だから勉強しても無駄 女の子だから一人暮らしはやめなさい 女の子だからお手伝いしなさい そんな言葉を(直接的・間接的に)浴びて育てば「ひとりで生きていける」自信と力はどんどん削がれていく
子どもの興味のあることを嘲笑する 子どもの欲しくないものをプレゼントして感謝を要求する つまんない宴席に引っ張りだして上機嫌でいないと怒る 子ども同士を比較する 延々と自慢説教昔話ご近所の噂話 下ネタセクハラ性差別 そんな大人は嫌われます。いくらお年玉積んでも尊敬は買えません
正義の反対は別の正義、なんて簡単に言える。でも、そうかな。問題は「正義」という道理すら通じなくなってしまったことじゃないかな。価値観の相違と「正義」云々は関係ない。正しさも正義も、それを受け入れられない人たちの手によって貶められてしまったのだと思う。
我が子と、そして我が子以外の子どもたちと接してきて否応なく気づかされたのは、大人が「考えてごらん」と促した時に「大人が望む答え」をナチュラルに探してしまう子が大半だということ。理不尽に直面して「考えてごらん」と促されて「考えた」結果「やっぱり納得できません」と言える子は本当に少数
それ以外の「良くない評判をきいた」について私は基本的に関わりません。繰り返しますが、それはきっと私たちも他で言われてることだから。それをわざわざSNSで仄めかすようなことをしたのでは、それ自体が私たちへの信頼を下げる行為になります
つまり同意云々関係なく「出さないが正解」です あとね、実は大抵の人はよそんちのお子さんの写真にあまり興味ありません。もし強い興味を引かれる人がいたらそれは「よくない興味」かもしれないのでとにかく出さないが吉。子どもの安全は日常の小さなことで侵され、それは権利侵害の土壌になります
「波風立てない」「器用にふるまう」「(男性を)上手に巻き込む」スキルは私が発言する機会を力を得るのを手助けしたかもしれないけど、結果として不均衡を温存することになったのだと思う。子どもたちに受け継ぎたくない、だから子どもたちにこの姿を見せたくない。でもできなかった。悔しい