もちろん、世の中には「男の子なんだから」「男のくせに」という抑圧もある。でも片方がしんどいと言ったとき「こっちの方がしんどい」ってしんどさ比べを始めても誰も幸せにならない。ジェンダー抑圧の構造は性差で表裏一体。是正しようという声はどちらから上がってもいい
「これって性暴力(セクハラ)じゃないかな…?」という言動に苦しんでいる子どもたちが「でも『良い先生』だし」「そのつもりはないかもしれないし」と口を封じられ相談できなくなってしまうことを恐れます。その意味で非常に悪質な記事です #文春オンライン
最後には「聞こえるように言わなかったお前が悪い」と言われ、最初に戻る。いつまで続くのこれ
もちろん働いていない。「働かずとも自分が養うから問題ない」と配偶者は言う。   疾患や障害で本当に運転が「無理危ない」ってわけじゃなく、ただ一方的に運転=自由な移動が禁じられ、女性の側も「不便だけど今までなんとかなってきた」し「稼いでもらっている」し、そして→
「そうですよね、すみません。生魚がお口に合わないかと思いまして」とすごく恐縮して謝られて、あまりに低姿勢でこちらが申し訳なく思ってしまうくらいで、まあ「まず確認してくださいねー」くらいで仕舞いにしたんだけど
女性差別について講演した時もそうだった。男性の受講者のご機嫌とりをしてしまう。今はその話をしていないのに、わざわざ持ち込んでしまう。「みんな大変」で焦点をぼかしてしまう。染み付いたこの癖は私がこの不均衡で不当な環境を生き抜くために必要だった。でも手放したい。変わりたいし、変えたい
1週間弱親元を離れて沖縄に滞在する高2娘氏。上間陽子さんの本を読んでからの離陸。到着後同じく本土から来た関係者(教員)が挨拶で「沖縄良いところだよね!住みたい!」と言っていたことに対してとっても「もやった」と。これが上間さんの書いていた「声が届かない」と言うことなんじゃないかと
「子どもの貧困対策」は基金頼み、かつての内閣総理大臣が子どもに向かって「こども食堂に行ってみよう」などと呼びかけ「助けを求めれば支えてくれる人がいるよ」と自助を求め「未来を決めるのはあなた自身」と突き放す、そんな「貧困対策」がなかなかアップデートされない責任の一端は→
もし「誰かを助けたい」というその願いが叶わなかったその時、「助けを得てこの場所に来るチャンスを掴めない人たちの努力不足」に転じるリスクがあるから
様々な家族構成があり、親に手紙を書くのがしんどい子がいる。教員が期待する「良いことエピソード」を書けない、書こうとすると自分の中の何かが損なわれてしまう子がいる。その子たちはずっと存在してきた。そして我慢と忖度を強いられてきた。そろそろ大人側がアップデートしない?
性加害は、まさにコントロール(支配)欲求に根差してる。そして対人支援という業界はなにかと屈折しやすい。多忙で、賃金の格差が激しく、仕事での報われなさを「良いことしてる」やりがいで埋め、「世間」に評価されず時に攻撃されることも多々あり、自分にも身内に甘くなる
なぜ「貧困状態の子」がその「恵まれた環境にいる子」の関心を満たさなければならないのですか?   来るな、ではありません。うちも含めて多くのこども食堂は全ての子たちに開かれています。なので「関心がある私」と「こども食堂に来てる子たち」を切り離さず、ただのユーザーとして来ればいいんです twitter.com/osaki_0310/sta…
だからね、本来なら行政の責任で制度整備されるものだと思う。民間に丸投げするんじゃなくて。必要なのは事業ではなく制度。そうでなければ受益者が偏りすぎてしまう。だけどどんなに制度化しても必ず隙間は生じて、私ら民間はあくまでもその隙間を埋める小さな存在でありたい。と、個人的には思ってる
貧困という構造的問題に対し「こども食堂」にできることには限りがある。場所づくり、つながりづくり、見守り、相談できる関係性…そういった役割は大切でも「貧困対策」ではない。それを「子どもの貧困対策にはこども食堂」という文脈にすり替えることで→
うん?「人権問題が好ましくない」ではなくて「人権問題への抗議が好ましくない」とな。W杯も五輪も既に政治的イベントです。人権のない民主主義は存在しない。こういうところががっかりでサッカー好きなスポーツなのに観るのも楽しむのもあれこれ躊躇しちゃうのよね www3.nhk.or.jp/news/html/2022…
その子が「ここに来たい」という願いを裕福(そうに見える)であることを理由に私は断りたくない。親が「行ってほしい」と思う、その背景にある何かを軽んじたくない。そしてもし「裕福(そうに見える)子にだけ課金」「裕福(そうに見える)子は来ない」場所だと他の子や周囲の大人が認知したら?
「話を聴いてくれたり認めてくれたり助けてくれる大人が周りに誰もいなければ、私たち子どもはどうしたらいいんですか?」 という真っ直ぐな質問を度々受ける。「どこかにはきっといるから諦めないで」なんて簡単に言えない。なぜ子どもたちが「助けてくれる大人探し」の努力をしなきゃいけないの?
行政や大企業に対して本来の「対策」に充てられるべき予算や取り組みを縮小させるエクスキューズを与えてしまっている。「こども食堂」というキャッチーなアイコンを貧困対策と紐づけることで、貧困対策そものもががどんどん軽んじられてしまっている
中絶の権利が覆された米国の判決。理不尽は突然降ってきたものじゃない、ひとりひとりの選択と行動の積み重ねの結果国の代表が選ばれ、判事が選ばれ、女性の安全と権利が奪われた。日本も同じ。たった1回の選挙、たった1回の選択、その積み重ねが私たちの権利を守ることもあるし、奪うこともある
逆にもしかして店員さんの独断だったら私がお膳を突き返したことでもしかしてあの後普段よりもっと酷く怒られることになったりしていないかな、とか考えちゃって。こちらは頼んでないものを出されるという不当な扱いを受けた側なのに「配慮」を拒絶した申し訳なさが膨らんで
部活さ。強制はほんっっとやめてほしいけど、一万歩譲ってもし入部を強制にするなら、どんなに小さな学校でも文化部と運動部合わせて最低30種類くらいなきゃダメでしょう。強制だけど運動部だけとか、3つか4つの部からしか選べないとか地獄でしょう。
詰む「善行」によって、困難を引き寄せる属性から・困難のある場所から動くことができない人たちが踏み躙られていくのはもうこりごりです。
印鑑を持っていない人の(福祉の)手続きに同行すると「サインだめ、印鑑なければ申請できない」の一点張りで、挙げ句の果てには「100円ショップで売ってる印鑑でいいので持ってきて」とか言われる。誰でも百均で買えるような代物にサイン以上の価値や効力があるとは思えないんだけどなぁ
そんないらんことするよかメンタルヘルスと人権と福祉についての学習を義務教育に導入した方がずーーーーーーっと効果的だと思うよ。 twitter.com/YahooNewsTopic…
努力して成功した、幸せになった、それは誇れること。でもその努力を当たり前のものとして他者に要求する前に、自分の努力の土台に「努力できる幸運」があったかどうかを少しだけでいいから振り返ってみてほしい。努力できる幸運を認めたとしても、あなたの努力の価値はちっとも損なわれないから