「諦めず助けを求めてください」と言われても、願いや要求を拒絶され否定され自分の話なんて誰も聞いてくれない誰も助けてくれないって信じてしまう体験の蓄積で現在の困窮があるわけなので、助けを求めるってハードルがまず高い。困窮する人に「助けて」って言わせるのは(国として)恥ずべきことだよ
多くの人にとって二次加害になりそうな中身だったのでシェアは控える。いじめの中身も開き直った態度も薄笑いする取材者の姿勢もどれもトリガーになるから。でも翻訳されて世界にばら撒かれて散々問題にされてほしいとも思う。加害を「やんちゃ」だと許容する風潮を葬るために。
オリパラ開会式作曲者小山田氏の「いじめ自慢」の中身を読んだ。想像以上に残虐な暴行と性加害で、人権と尊厳を蹂躙し尽くす犯罪行為だった。吐き気が止まらない。過去の話だと、人は変わるものだと、そう流せるレベルを超えてる。蒸し返し云々じゃない、問題とされなかったことがまさに問題
学校では「知らない人と話さないように」教える。加えて私は「性犯罪の多くは顔見知りによって起きるからあなたが『この人は安全だ』と確証を持てない限り特段愛想よくする必要ない。勝手に好意を持たれたと誤解される場合があるから」とも言ってる。赤の他人の将来の心配は子どもを守ってくれない t.co/Iw15eddWj3
むすめ氏16歳「わたしらに未来を託すとか言う前に、格差とか差別とか紛争とか気候変動とか自分たちが作った問題の落とし前ちゃんとつけてよね大人たち。わたしら若者は社会的介護要員じゃないよ」 社会的介護要員!
絵本作家のぶみ氏が「虐待も離婚や中絶や流産も障害や病気も全て(胎内で)子どもが選んだ」という創作で子どもを「親を喜ばせる道具」に仕立てあげてきたのは周知のこと。それは多様性や共生とは真逆、自己責任と差別思想。知らないじゃ済まされないし知ってて起用したのなら上から順に腐ってるとしか t.co/3o5MplJTjC
「正義を振りかざす」という文言が揶揄や嘲笑や批判として用いられるようになって久しいが、正義すら振りかざすことを躊躇う私たちはいったい他に何を掲げるのだろう
正義の反対は別の正義、なんて簡単に言える。でも、そうかな。問題は「正義」という道理すら通じなくなってしまったことじゃないかな。価値観の相違と「正義」云々は関係ない。正しさも正義も、それを受け入れられない人たちの手によって貶められてしまったのだと思う。
風刺は権威をいじってなんぼ。たとえ直接的な差別表現でなくても、社会的に虐げられた人たちをカジュアルにネタ扱いして消費するのはただの二次加害。被差別者を消費せずともエンタメは充分に成り立つ。それなのに「わざわざそれを選んだ」のはなぜなのか。軽率のひと言で済まされる問題ではないと思う
いじめや差別、虐待によって「才能が潰されてきた」人たちも山ほどいるんですよ。 twitter.com/attorneyatlawe…
私が今まで間違えたとき、過ちを犯したとき、誰かを傷つけたとき、私を叱って咎めて正してくれた人たちがいた。彼らのおかげで今の私がいる。でもその中に、清廉潔白で完全に品行方正だった人はいない。みんな間違えたことがある。みんな嘘をついたこともある。みんな誰かを傷つけたことがある
みんな、小さな罪を重ねてる。   不完全な罪人が互いに「それはダメだよ」と言い合えて、この社会は前に進んでいく。品行方正で清廉潔白な人だけが誰かを裁けるのだとしたら、この世の全ての過ちは誰からも裁かれなくなってしまうよ。過ちを犯さない人はいないのだから
ただ言葉を選ぶ、自分の言葉に責任を持つ、石を投げられた痛みを想像する、そして自分が投げた石はいずれ自分に投げ返されることを知り、投げ返された時に自分がどう振る舞うかを考える。それは必要なこと。
こういう時だけ都合よく象徴化しないでほしい。その「いろんな国の要素が混じってる」ことを理由に普段どれだけ誤解や迫害を受けてきたか。そして当然のことながら、私たちは国の容器じゃない。それは「ハーフ」だろうがなんだろうが同じ。「ハーフ(混血)」に対してだけじゃない、人間への侮蔑です。 twitter.com/itoi_shigesato…
多様性の象徴という役割を、私たち「外国にルーツのある存在」に求めないでほしい。多様性は、その軸そのものが多様。容姿や肌の色という要素が「わかりやすい」からといって利用しないで。だって私たちの多くはこれまで散々「多様なバックグラウンド」を理由に疎外され誤解を受けてきたんですよ
多様性は誰の中にもある。大坂なおみさんも、そして私たちの誰もがあの場所に相応しい。だから彼女を批判するつもりは全くない。ただ聖火を手にする彼女が「多様性と調和」のシンボルとして「多様なバックグラウンドを持つ大坂選手が」とアナウンスされたことがあまりにも軽すぎて、うんざりした。
「次の話には、性暴力被害に関する描写が含まれます。フラッシュバックなどの心配がある方は注意してご覧ください。また121ページまで読み飛ばしても物語に影響はありません」 『とんがり帽子のアトリエ』9巻中の注意書き。この配慮、覗きは性被害だと明言する姿勢、二次加害の描写、全てが誠実
この漫画の優しさは注意書きの配慮だけじゃない。大人と子どもの関係性に表れてる。そのうえ画力が並外れてるし世界観は細部まで作り込まれてるしキャラは魅力的だし、何よりワクワクとドキドキが止まらないストーリーの展開。純粋におもしろい。むちゃくちゃおもしろい。読もう。
注意書きの先に露骨な性描写があるわけじゃない。だから「この程度のことで?」と思う人もいるかもしれない。そう、「この程度のこと」で傷つき尊厳を損なわれてきた人が沢山いるんです。そして注意書き以降の展開がまさに「この程度のことで?」と言う人たちにNOを突きつけてくれている
8巻、キーフリー先生のこの台詞が好き。子どもたちがちゃんと大切にされて、大切にされることで自立していく。大人と子どもの関係性と距離感がが本当に素敵な漫画です。「学ぶ」ことが丁寧に描かれてるのも好き。 #とんがり帽子のアトリエ
「私は絶対にいじめをしません」と言う人を信用できない。いじめの被害者であっても。私もいじめを受けた。でも私も誰かを排除したり傷つけたことがある。意識的にでも無意識的にでも、きっと誰にでもある。私にいじめのつもりがなくても相手にとっては違うかもしれない。私の「つもり」なんて関係ない
承前)携帯無い、LINEアカウント無い、自宅に固定電話も無い。家庭は困窮して、かつ安全が脅かされてる子も一定数いる。ふつーにいる。アルバイトにも携帯番号やLINEが必要で難しかったり。今はNPOの広報もオンラインが主流だから、そういった子たちは繋がれない。当たり前の外側を視野に入れていたい
オフライン環境で苦しんでる子たちと少しでも繋がるためにスクールソーシャルワーカーというポジションに居続けてる。フリーランスの立場ほど柔軟に動けないけど「公」でないと介入できない事案は少なくないから。団体の運営・フリーの活動との両立はなかなかしんどいけど、どれかひとつ欠けてもだめ
勇気だの感動だのを届けられても誰も救われない、誰も幸せになれない、そもそもそんなの届かない、そういう世界線で生きてます。
子どもに相談することや逃げることを要求しても、それを受け止める姿勢が私たち大人にある?理不尽な抑圧や見通しの立たない不安定な社会情勢や進路へのプレッシャーや格差やひとりひとりに目の届かない教育環境や暴力や搾取にあってる子を救えない仕組み、これ全部大人が作ってきたこと