101
保健室って学校の中のクリニックだと思うの。だから「授業に戻らないと単位やばいよ」とか「休んでばかりだと勉強遅れちゃうよ」とか、そういうの要らないんです。病院で「通院なんかして仕事大丈夫ですか?」「病院に来たら出世に響きますよ」って言われたら苦しいですよね。要らないんです。
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仕事をするには、住居が必要。田舎では車も必須。業務に相応しい服装や靴も必要だし、持病があるなら治療もしなきゃいけない。仕事を始めるにはお金がかかる。だから「お金がない、助けてください」って窓口に来た人に開口一番「仕事を探しましょう」って言うのやめてほしい
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私たちは自分の人生しか生きられないわけで、つまり78億分の1の生き方しか経験できない。子どもが自分と違った生き方を選ぼうとした時、たかだか78億分の1の生き方しかしていない親がその軸で正解だの不正解だの成功だの失敗だのとジャッジできるはずがないんだよね。
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子どもの判断と意思は尊重されるべき。ゆえに、大人の欲のために利用されてはいけない。だから大人の行動を制限する必要がある。そのための年齢引き上げだと思う。大人だって間違える。子どもも間違える。間違えることは、意思や判断が「できない」という理由にならない
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私が13歳の時、そして14歳の時も、15歳も16歳もそれはそれは未熟だった。自分の安全も権利も、それが侵されることも理解してなかった。でも、私がかつて未熟で無知でたとえ「意見」なんて持っていなかったとして、目の前の子どもが同じとは限らない
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私たちはかつて子どもだった。でも今は違う。「自分がかつて未熟で無知な子どもだった」ことは、目の前の子どもを未熟で無知だとジャッジする根拠にはならない。性同意年齢引き上げには賛成だけど「自分がかつていかに未熟だったか」を語り今ここにいる子どもの主体性を否定する文脈には危うさを感じる
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RT)性同意年齢の引き上げに賛成なのは言うまでもなく、ここぞとばかりに慎重論を持ち出して興奮気味に反対する大人たちを軽蔑もする。だだ私が賛同するのは「子どもは未熟で間違えるから判断できない」という理由ではなく、「子どもが間違えることを利用する大人を罰しよう」という意図においてのこと
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「かつて子どもたった経験(当事者性)」は「子ども支援」において重要な内的リソースだけれど、「でも今は大人である(当事者ではない)」という軸を持ち合わせていないと目の前の子どもの権利を(非意図的に)侵害することになる。「今ここ」を生きる子どもたちは、かつて子どもだった私じゃない
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学校や部活や習い事や、仕事なんかも、自分でやろうと決めて始めたことが思ったようにいかなくてやめたくなると、「自分で決めたくせに」「自分で選んだんだから諦めるな」と叱る人がいる。うん、そうです。自分で選んで決めて始めたことだから、やめるときも自分で決めていいんです。
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「子どもが好きです」という人たちの中には、個としての子どもではなく「子どもらしさ」が、つまりその人が勝手に子どもに期待する性質(例えば無邪気さとか無垢さとか天真爛漫さとか)が好きな人が一定数いるから、ちょっと警戒する。
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「昔は今よりも地域の繋がりが強くて子どもを見守る目がありましたよね。近所の雷親父とかお節介おばさんとか」と言われることがあるけど同意しない。子どもが地域社会から「逸脱」しないよう見守る目はあった。でも家庭の中で安全に過ごせてるかについては、今以上に「見ない、触れない」だったと思う
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そもそも「昔」っていつなんだろうって思う。その人のイメージの中にしかない時間軸なんじゃないかな。今よりも人権意識低くて家父長制バリバリで子どもや女性を虐げるのがずっと当たり前だった「昔」しか、私は知らないけどな。
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かといって、今が「地域で子どもを見守る」社会になったかと言ったらもちろんそうではなくて。「繋がり」はたしかに希薄になってる。でも人権意識を欠いた中で「繋がり」だけ密になっても、イコール子どもを守るにはならないよ。
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もしちょっとだけ欲を出せば、もし子どもたちが大人になって「そういえばたべまなってところがあって、あれって寄付で支えられてたんだなぁ」って思い出して、もしそのことに「感謝」して、もし何かの形で返したいと思ったら、それはたべまなを支えてくれた大人ではなく次の世代にであってほしい
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たまに「寄付した返礼に子どもたちからの感謝の手紙がほしい」とリクエストされることがありますが、お断りします。心地の良い場所も食事も危機からの避難場所も本来子どもたちが当たり前に得るべきものです。当たり前のことへの感謝は大切、でもそれは誰かから強制や期待されるものではないと考えます
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KAKECOMIの事業の多くの部分が寄付によって運営されている事実はオープンにしています。そのことに「感謝」する子もいるでしょう。でも私たちは子どもたちに感謝の心なんて期待していません。当たり前に、むしろ図々しく守られて助けられて権利を主張してほしい
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なーんて思うこともありますがそれも私の勝手な欲で、子どもたちには関係ありません。
子どもたちからの感謝の手紙やメッセージを返礼として子どもたちに求めることは決してありませんので、それをお求めになるなら私たちではご期待に沿えません。
今日もたべまな、15時開店です。
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私はスポーツで「感動」するタイプの人間ではないけれど、そもそも日々の生活にさほど「感動」は要らないと思ってて。感動に言葉は要らない、感動は言葉を奪う、言葉が奪われれば思考も奪われる。感動を欲する時の自分も、やたらと感動を勧め「与えよう」としてくる人たちも、ちょいと危険視してる
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そもそも今の日本、学校教育からエンタメから産業まで
感動>>>>>>>>思考
になってる気がする。既に感動飽和状態。感動が批判的思考を薙ぎ倒し刈り取ろうとしてる。
危ういと思う。
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虐待への介入が遅れ子どもに深い傷を負わせてしまい、時に死に至らしめる事案は枚挙に遑がない。でも素早い介入で最悪の事態を未然に防げた事例もある。多くある。ただしそれはほとんど誰にも知られない。「何か」を防いだから。知られないだけでなく「ことを無駄に荒立てた」と非難されることすらある
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「ごめんなさいが言える人に育ってほしい」って願う親は多いけど、ちゃんとごめんなさいできる大人って少ないと思う。特に、子どもに対して。
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印鑑を持っていない人の(福祉の)手続きに同行すると「サインだめ、印鑑なければ申請できない」の一点張りで、挙げ句の果てには「100円ショップで売ってる印鑑でいいので持ってきて」とか言われる。誰でも百均で買えるような代物にサイン以上の価値や効力があるとは思えないんだけどなぁ
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「学校に行かないこと」と引き換えにもっと高い期待や要求をされるのはしんどいなぁ。「不登校なのに〇〇で活躍」を求められる。学校しんどくて、行かなくなって、でもその代わりにもっと高い期待や要求を(明白にであれ、暗にであれ)提示されて息が詰まりそうになってる子、増えてきてる気がする
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子育てに理念なんて持ってないし自信なんてあった試しがないけれど、娘氏が私と違うものが好きで、違う考えに惹かれて、想像もしなかった夢を持ってて、私の言葉に「そうは思わない」と返して、私のしたことに「嫌だ」と言って、ちゃんと不機嫌になってくれると、間違ってなかったんだなぁって思える
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そこじゃない。本当にそこじゃない。問題は小学校入学時に子どもに課せられた要求が既に高すぎることにある。だから子どもも教員も疲弊するし、入学時に「座って集中して学習する」ことが困難な子は早期発見の名目で「(発達障害の)診断をもらう」ことが求められる news.yahoo.co.jp/articles/bf08e…