エビデンスのないなんとかセラピーのセラピストを名乗って「発達障害を治せます」と言う人からたまにFBフレンドリクエストが届くのだけどTLを覗くと似非科学やら陰謀論界隈との繋がりが濃厚な上にプロフィールに公立学校で特別支援敎育支援員やってますとかあって、なんかもうなんだかなと
小学生からダイエットして中学生で整形したいと訴える。「自分は醜い」「醜いから消えたい」と言葉を振り絞る子たちに「あなたはかわいいよ」と言うのはたとえ本心でもなんか違う。かわいいか・かわいくないかという軸を肯定してることになるから。「見た目なんて関係ないよ」なんてのも違う→
その子たちの切実な痛みを軽んじることになるから。何も言えなくなる、難しい。ただ私たち大人にできることは、普段から容姿についての言及を避けること。自己批判(自虐)も含めて。自虐は他罰になるから。容姿や体型以外にも、子どもたちと共有できる話題はたくさんある。そっちを膨らませていきたい
大きなことじゃなくていい。眠れない時に一緒に寝てくれたとか、体調悪い時に休ませてくれたとか、落ち込んだ時に好きなもの食べさせてくれたとか、子ども時代にちょっと困った時の小さな願い事を身近な大人に叶えてもらった経験が大人になってからの「困った時誰かに頼れる力」の下地になるんだと思う
RTとは少し違うけれど、 ちょっと意見くれない? 助言もらえる? 読んでアドバイスほしいな と請われて関わった書籍やスライドに一切私の名前がない、謝辞もない、「お礼にご馳走するね」で済まされる、私の存在を不可視化して栄誉だけ掻っ攫う、そういう相手は全員男性でした
若い頃はそれを「親しさゆえ」と自分に言い聞かせ、「立派な先生に頼られている自分」に酔おうとすることで飲み込んできてしまったけれど、すごくすごく悔いてます。言葉だけの感謝もご馳走も要らん、名前を載せろ。今は、そしてこれからも、相手が誰であれそう要求する。
ちなみに女性の先輩や先生たちはみなちゃんと名前や謝辞を載せてくれたり助言に対して報酬をくれたし、男性の先生の中にもきちんと対応してくださる方もいます。しかし私という一例に限ったことではありますが、「タダでの協力」を当然のように要求するのはおしなべて男性だったのです。事実として。
「区別しない」と「差別しない」は同義じゃないんだよ。区別しないことで不均衡や暴力が温存されるなら、それは差別です。
子どもの貧困でもヤングケアラーでも、何年も前から現場で「こういう事例(の顕在化)増えてるよね」と気づいて、手探りで支援を構築して、共有して知見を積み重ねて、訴えて、声の大きな人や組織に届いて世間の関心が集まって、やっと調査や研究が始まって、そんで数年後に「〇〇対応の研修」みたいな
こども食堂やサードプレイス、または「子どもの貧困」対策に取り組む非営利団体向け企業助成金が増えているけど、その企業が自分とこの従業員をどんな条件で雇用してるか、非正規雇用の割合どのくらいか男女の賃金格差放置してないか長時間労働強いてないか等の諸々が気になるし、気にするようにしてる
私たち「支援者」だっていろんな困り事を抱えてる。自分や家族に病気や障害がある、子が不登校、DVがある、低賃金でお金ない、借金がある、物質に依存してたり言えない過去があるetc.でも目の前の人からは「ちゃんとした仕事をして安定した生活を送ってる人」に見える。その眼差しは常に意識している
うん?「人権問題が好ましくない」ではなくて「人権問題への抗議が好ましくない」とな。W杯も五輪も既に政治的イベントです。人権のない民主主義は存在しない。こういうところががっかりでサッカー好きなスポーツなのに観るのも楽しむのもあれこれ躊躇しちゃうのよね www3.nhk.or.jp/news/html/2022…
サッカーという競技はそもそも移民や格差といった様々な問題を内包するスポーツ。「サッカーに集中」なんて簡単に言ってしまえるのがまさに「そういうとこやぞ」と
王様が「勝ったから明日は祝日です!」と決められる国は、同じように「負けたから明日祝日だけど平日にします」と決められてしまうかもしれない国だってことだよ
「負けたから」にはきっと他のいろんな言葉が入るし、「平日にします」も同様。粋だとか羨ましいとかの前に怖いなぁって思ってしまう
愛とか思いやりとか、計測できない尺度なんて信用ならないよ。家族であっても恋人であっても友人であっても。大切なのはその人があなたに何を言ったか、どう行動したか。それだけ。
企画側はもとより出演側も「男性だけである」ことに何ら疑問を持たなかったのかな。「どんなに実績を上げても椅子が空かない(椅子を占拠している人たちが降りない)限り座れない」という不均衡に意識が向かない男性たちが健康に生きるという(女性の)権利について語るって、かなりグロテスクだと思う twitter.com/jimin_koho/sta…
妊娠を理由に退学を迫られる女子生徒 ひとりで隠れて産まなければならない女性 お金がなかったり相手の「同意」を理由に中絶できない女性 親元で育つことができず将来の選択肢が狭まる子ども・若者たち そんな人たちに日々関わる私がなぜか移住促進の会議、つまり自治体の人口増やすには→
この日本には、社会から祝福される出産とそうでない出産がある。露骨にある。「産みたいのに産めない人に産む機会を」という動きは「生まれてくる全ての子たちとあらゆる事情を抱えた母親を守ろう」という動きと連動していない。だから警戒する。
どうしたらいいか会議に呼ばれたことがある。そこで「移住してきてほしいモデル」として設定されていたのが両親揃っていて働いて稼いでいて(つまり「福祉のお世話」にならず)子育てしてる世帯だった。普段私が出会う人たちは、そして私自身も、この地域から歓迎されてないんだなぁとしみじみ感じた
こども家庭庁絡みで子どもの「孤立予防」を目的とした「第三の居場所」を増やそうという動きがあり私たちの団体もヒアリングを受けましたが、このように大人が守られない働き方が再生産されてしまう懸念を抱いています。「孤立しない」はただ周りに人がいるという状態を指すのではありません→ twitter.com/motz33/status/…
でもそこがちゃんと繋がらないと「誰かを助けたい(誰かを助ける自分になりたい)人たち」の願いが「当たり前の生活と権利の回復を必要としている人たち」の必要性に優先することになってしまう。それはきっと、彼らの願いにも反することになるだろうから。
この落差に、時々眩暈がする。 希望に満ちて夢を語る学生さんたち、その希望に水を差すだろうことを承知の上で、問題に「関心を持つ」という特権とその特権を生み出している構造的問題への眼差しの必要性を説明する。たぶん、彼らにとっては余計なお世話だろうなと思いつつ
貧困問題に関心があります メンタルヘルスをテーマに起業したいんです 大学入試でこども食堂についてプレゼンしたいです そんな学生さんたちが日々連絡をくれる。彼らと話したその数時間後、私は貧困のど真ん中にいて虐待を受け学校との繋がりが絶たれ「将来を選べる」機会から程遠い子たちを訪ねる
もし「誰かを助けたい」というその願いが叶わなかったその時、「助けを得てこの場所に来るチャンスを掴めない人たちの努力不足」に転じるリスクがあるから