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子どものしんどさは貧困ばかりじゃない、も事実。貧困の子はその他のしんどさを抱えやすい、も事実。そして外から見えづらい貧困がある、も事実。誰でも利用できるが大切。そして限りあるリソースをより必要とする人に優先して提供するのも大切。「子どものため」の事業を行う人たちは、
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誰もがなんとかバランスを取ろうと、葛藤しながら、目の前の子たちの必要性に応える手立てを模索しているのだと思う。「裕福に見える家庭の子」を排除するのも、その限られたリソースの分配に苦慮した結果なのかもしれない。でも
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こども食堂ってそういう「支援サービス」なのかな?その役割を引き受けてしまっていいのかな?そうすることで本来担うべき場所の責任を免除してしまっていないかな?というところから、そろそろ吟味した方が良いと思います。
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追記。そもそもこども食堂というシステムは「貧困対策」になり得ないわけで。しかしながら子ども食堂と貧困対策とを紐付けしたのは他ならぬこども食堂(を増やそうとしている)側で、その結果貧困のステレオタイプ化や貧困に見えない子の排除、スティグマの強化が進んでしまうとしたら本当に悩ましい
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(今さらサードプレイスとか不登校支援とかコミュニティカフェとか多世代交流とか言い出しても遅いんだってば)
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よく仕事は楽しいか、やりがいはあるかときかれる。私が仕事を続けるのは楽しさとかやりがいとは関係ない。ただ必要だから。傷ついた人(子)たちを支援し受け入れる仕事はむしろ楽しいとは真逆。受けるのは喜びより痛み、感謝より攻撃、誹謗中傷も日常。やりがいや楽しさに依存すると、詰む→
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対人支援を生業とする人がきちんと充分な報酬を受け取ること、きちんと休息をとり、好きなことを充分にやること、これは本当に大切。「仕事のために生きる」は誰にとっても良くない。でも特に対人支援職にとってはいちばん避けるべきものだと思ってる→
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ソーシャルワーカーを目指す学生さんにお話をする機会が度々あるけれど「仕事しんどいし恨まれたり攻撃されたり誹謗中傷も当たり前だし無関係な人からも誤解されるし、楽しさとかやりがい求めたら拗れるからそれを満たす場は別にちゃんとつくっておいてね」って話す→
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仕事してて「楽しい」って思う瞬間は確かにあるけど、それって大抵「思い通りにいった」時で。その心地よさにハマっちゃうと「思い通りにいく」ことを対象者に要求するようになって歪む。楽しい時ほど注意が必要。そんな因果な商売、続けるのはただ必要だから。それ以上何もない、何も求めてない。
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女性だからって水餃子の半分野菜にされたツイート同じ経験山ほどあるから共感して読んだけど、個人的に最悪の経験は海鮮系の食堂に入って日替わり定食(煮魚と刺身)頼んだら勝手にサラダ目玉焼きパンコーンスープにされたことかな。見た目「外人」だから魚もご飯も苦手だろうって「配慮」だったらしい
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なんだか度々店の奥で年配の男性店主がその女性やアルバイト女性を怒鳴りつける声が聞こえて来て、店員たちは接客時も表情暗くてびくびくしてて、何やらやべー店だなと思ってさっさと食べて帰った。美味しかったのに残念。で、もう2度と来たくなかったけど、
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だいぶ昔のことだけど。他の客はみんなメニュー通りの定食を食べてたからメニューが変わったわけじゃない。意味がわからず配膳した女性(店主の配偶者らしい)に「頼んだものと違いますが何か事情でもあるのでしょうか。できれば頼んだものを出してください」と膳を返したら、
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「そうですよね、すみません。生魚がお口に合わないかと思いまして」とすごく恐縮して謝られて、あまりに低姿勢でこちらが申し訳なく思ってしまうくらいで、まあ「まず確認してくださいねー」くらいで仕舞いにしたんだけど
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逆にもしかして店員さんの独断だったら私がお膳を突き返したことでもしかしてあの後普段よりもっと酷く怒られることになったりしていないかな、とか考えちゃって。こちらは頼んでないものを出されるという不当な扱いを受けた側なのに「配慮」を拒絶した申し訳なさが膨らんで
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この「良かれと思ってされた不当な扱いを断る」の、本当にストレスなんですよね。
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その後一度だけお誘いを受けて同じ店に入ったら、やっぱり店主が店員たちを怒鳴ったり激しく叱責する声がダダ漏れで。パワハラ店主が店員の勝手な判断を許すとは思えないからあの時私のメニューを勝手に変えたのは店主の指示だったんだろうな、なのに謝ることになった店員は気の毒だな、と思ったし
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マイノリティ(数の問題じゃないよ)のしんどさって不当な扱いを受けることだけじゃない、この「良かれと思ってされた害のあること」を拒絶する時に生じる摩擦のストレスもある。多いにある
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当県で開催された「SDGs博」のニュースを読んだ。環境、ダンス、食、復興…
貧困や差別、ジェンダー平等といった言葉はどこにもない。「みんなが不快にならないきれいなテーマ」でその「みんな」から排除されている人たちの困難、構造的問題を塗り潰す。ある意味とっても日本のSDGsイベントっぽいなと
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「本当に厳しい家庭」の線引きは誰がするのでしょうか。誰にもそんな権限はありませんし、本当に困っている人探しの行き着く先は排除です。子どもたちの・ご家庭の抱えるしんどさは困窮に限りません。子ども食堂は子どもたちの場、子どもたちが行きたいと願うのであれば、ぜひご利用ください。 twitter.com/nocchi50210545…
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今までろくに関心を向けてこなかった事柄に対して、その事柄に「無関係でいられる特権」を持つ人が、突然「そのやり方じゃ理解されませんよ」「アップデートしましょう」と言い出す。そうやって当事者の、現場の声が軽んじられ捻じ曲げられ続けてるんですよ
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我々の現場、女性支援・困窮者支援の現場でもあるあるです。そしてそういう「助言」をする人たちもまた「世の中を良くするため」の活動や発信をしていたりする。関わらずにいられるのにわざわざ関わる姿勢を「善行」と呼ぶのかもしれない。でも関わらずにいららる特権を手放さず、特権に意識を向けずに
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詰む「善行」によって、困難を引き寄せる属性から・困難のある場所から動くことができない人たちが踏み躙られていくのはもうこりごりです。
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(承前)これ「こども食堂」にも同じことが起きてると感じてて。目の前の人の・当事者の声と必要性から草の根で始まった活動に対してどこかから「コーディネートしますよ」と言い出す人たちが現れて組織化されて謎に大きくなって色々と歪んだ。お金の流れも含めて。
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「分断を許さない」「対立をやめよう」って、ぜひ分断や対立という構造を生み出している側に向かって大きな声で言ってください。分断も対立も、権威が生み出した構造です。それに抗う人たちに向かって「やめよう」と言うのは、「黙れ、服従しろ」と同義です。
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様々な抗議活動も草の根の市民活動も、瞬間的なインパクトよりも継続性が大切。そのために自分たちの生活と健康を傷つけずにどう続けていくかをそれぞれが模索してる。時に小さく、泥臭くあるのはそのため。その小ささをぬるいと感じたり泥臭さが不快だと言えるのは、無関係で安全な場所にいるから。