むしろ「福祉が不十分なせいでケアの役割を担わせてしまってごめんなさい」って謝るところじゃないか。「頑張らなくていい」「頼っていい」って何なん。それじゃ「頑張ってもいい」「頼らなくてもいい」になっちゃうじゃないか
特性でもなんでもなく機会の差でしょう。「良い大学に行く」「良い塾に通う」ことを望まれ応援される環境を得られるかどうかに性差があるのだから。つか女子はコミュ力、男子は不器用な能力って、入試で不当に女子サゲしてきた人たちの詭弁と全く同じじゃないか… twitter.com/tokyokojuken/s…
女性差別について講演した時もそうだった。男性の受講者のご機嫌とりをしてしまう。今はその話をしていないのに、わざわざ持ち込んでしまう。「みんな大変」で焦点をぼかしてしまう。染み付いたこの癖は私がこの不均衡で不当な環境を生き抜くために必要だった。でも手放したい。変わりたいし、変えたい
ジェンダーギャップについて取材を受けた。女性であることを理由に被る不利益や抑圧や様々な被害について話しながら「男性には男性の辛さがあって」「(女性らしさだけでなく)男性らしさの押し付けもあって」と挟んでしまう。その話はしてないのに。「男性の読者」を怒らせないように振る舞ってしまう
「波風立てない」「器用にふるまう」「(男性を)上手に巻き込む」スキルは私が発言する機会を力を得るのを手助けしたかもしれないけど、結果として不均衡を温存することになったのだと思う。子どもたちに受け継ぎたくない、だから子どもたちにこの姿を見せたくない。でもできなかった。悔しい
衝撃的で悲惨な事件が起きると反射的に「何か書かなくちゃ」「何か言わなきゃ」という気持ちになったりします。それはしばらく寝かせておいた方が良い言葉かもしれません。
女の子はてきぱきできずだらしなく片づけせず話を聞かずぼーっとしてると気が利かないと叱られる(ことが多い)。男の子は「男の子だから」とゆるされる(ことが多い)。更には「教育の専門家」が「男の子脳」だなんだと無責任なお墨付きを与えてしまう そのせいですが? twitter.com/oyanochikara/s…
「マイペース」をゆるされた結果の「男の子後伸び論」がどれほど多くの女の子から機会を奪ってきたか。教育者を名乗るなら当然ご存知のはずではないでしょうか。
「困った時に助けてくれる人」とのつながりは大切だけど「困った時に助けてもらうためにつながりをつくる」のは苦しかったり、時に自分の中の何かが損なわれてしまったりする。つながりなくても困らない、なんとかなる、生きていける、その土台がほしい。それが福祉のはず
日本学生支援機構の家計急変採用(給付奨学金/返還不要) 『2022年7月1日より、家庭内暴力から避難をした場合も申請可能です』 ↑これは要宣伝!要拡散! jasso.go.jp/shogakukin/mos…
提訴を支持します。大人が安心して働けない職場で子どもを守ることはできない。人を増やすには待遇と環境の改善、そのための予算の確保。「社会的養護を受ける子の福祉」という多くの人にとって「関心はあるけど当事者ではない」事柄に優先して予算を割ける世の中であるか→ news.yahoo.co.jp/articles/efe26…
実際に一時保護所や児童相談所、アフターケア施設のためにこれだけ多くの予算を投じますという流れを私たちひとりひとりが支持できるかどうか。誰もが当事者になる可能性があった、でも運によってならなかった、その「当事者にならなかった多くの人」からの支持がないと動かない山です→
支援の対象者に対してイライラしたり、言う通りにさせたくなったり、話を遮ってしまったり、叱責や反論をしたくなったり、そんなことが増えた時。それはあなたがダメなのではなく、多分疲れてます。必要なのは自分を責めることではなく休息です。休も
差別的・加害的な言動を指摘すると「その意図はありませんでした」という反応をいただくことが多々あるけれど、はい、まさに私が問題にしてるのもその意図とやらではなく行動であり言葉なんですよね
ヘイトクライムについて毅然と反対するメッセージを出せず、差別に対して明確に反対することもできない政府が、奪われてよい命などひとつもないことを振り返る日であるはずの今日この日に死刑を執行した。言葉と記憶を掠め取るかのように。とても、とてもとても悔しい
・大声を出し脅すこと ・恥をかかせること この2つは「叱る」に不必要で、むしろ叱る目的=言動の修正を阻害する。でもこの2つをなかなかやめられないのは効果があるという間違った知識信念だけでなく、大人がその加害的な行為で「子どもを支配する立場」を確認しその立場に依存してるからだと思う
整形したい 痩せたい そんな言葉が小中学生からも聴かれるようになった。切実に。「自分のなりたい姿になる」のは個人の選択であり自由。でもそのなりたい姿は「多くの人が美しいと認める顔」だったりあるいは「他の誰かの顔」だったり、他の誰かから侮蔑されないための体重やスタイルだったりする→
「自分で選んだのだから簡単にやめてはいけない」と大人は叱るけれど、自分で選んだからこそ自分で「やめる」を選んでいいし、そもそも大抵の子どもにとって学校も部活動もその他も選択肢はとても限られているのだから、自分で選んだも何もないよね
「学校ムリでもここあるよ」はいいけど、「学校ムリならここがあるでしょ?」は危うい。そして両者の境目はとっても薄い
子どもたちから「しんどさ」について聴いたとき、その子個人のエピソードを汲みながら、できるだけ「それはシステム/構造/その運用者に原因があるかもしれない」という視点を共有するようにしてる。直接的でなくても。でないと人は辛さの原因を弱い者に向けてしまい、やがて差別やヘイトになるから
こども(家庭)庁設立の流れに絡んで「子どもを呼んで意見をきこう」という試みがちらほらと行われてる。それ自体は良いことだし必要だしそこに「呼ばれる」機会を得た子たちの声も大切であることには変わりないけれど、そこに「呼ばれない」子たちの声をどのように聴きに行くかがより重要だと思う
なんにもしたくない まだわからない これから探す 猫とのんびり暮らす 推しを愛し続けたい 平和に過ごしたい 好きなことだけしてたい あの国に住みたい   もし「将来の夢」を書かせる・言わせるなら、そういう答えも歓迎してほしい
子どもに「将来の夢」を書かせたり言わせるの、子どもにとって何か良い影響があると思えない。限られた知ってる職業の枠に可能性を押し込める必要ない。せめて「将来の夢」として特定の職業を書かせるのはやめてほしい。私ら生きるために仕事してるんであって、仕事するために生きてるわけじゃないよ
ちなみに私の幼児期の将来の夢は「お花屋さん」でした。小学生は「看護師さん」でした。今でもよく覚えてます。なぜよく覚えてるか。なりたいものなんて分からないのに大人がしつこく聞くからとりあえず納得しそうな手近にある答えを出したからです。あまりにめんどくさくて無意味な質問だなと覚えてる twitter.com/marikakonosu/s…
子どもに「将来の夢」を書かせたいのは誰か、言わせて安心したいのは誰かと問いたい。 震災のあと、地元紙で「未来の福島を担う子どもたち」とか何とかいうタイトルで子どもたちが書いた「将来の夢」が掲載された紙面があった(311メモリアルの特集だったかも)。私はそれがとても気持ち悪かった