相談窓口は抗議のツールではありません。援助を必要とする人たちのためのものです。回線やメールボックスに無関係な問い合わせが殺到することで支援を必要とする人との繋がりが絶たれる恐れがあります。それは誰かの命を奪うに等しい、暴力です twitter.com/colabo_yumeno/…
必要のない人は使わなければいい。主義主張が異なる人はそれ相応の場で反論、議論すればいい。 今朝は関連する流れの中で生活保護受給者を揶揄するツイートを見かけた。様々な立場があり、見方があり、意見がある。対話や議論において「支援を要する人」の声を奪うようなやり方を持ち込まないでほしい
それは間接的に誰かの命を奪う行為です。私はたとえ私と見解を同じくする、共感できる主張であったとしても、同様のやり方を持ち出す人には同調できません
少なくとも私たちは「いずれ私たちが必要とされなくなる社会」を目指して、そのためのプロセスとして、助成金や委託費による運営形態を受け入れています。それを「ビジネス」と批判されると、ついついやさぐれて「ほなら代わりにどうぞ」と言いたくなってしまいます。そんな現場です
とりあえず、支援を求める人にとって命綱ともなりうる連絡先を奪おうとする行為はすぐにやめてください。その行為は暴力、一片の正当性もありません。
子どもが勉強を苦痛に感じる(めんどくさいとか嫌いとか苦手ではなく)のはなぜか、子どもたちと話すことがある。できないと叱られる、馬鹿にされる、比べられる、自分のペースが許されない、そんな声があがる。勉強そのものではなく周囲の大人の態度や言葉なんだよね。新しい取り組みを追加する前に→
自力で乗り越えたストーリーが価値あるものと評価され、乗り越えることが個人の責任に帰される。チャレンジできない環境に置かれた子たちも「チャンスを掴めなかった自己責任」として置き去りにされる。ほんとうに、危うい。
これ以上入試や就職が「経験」軸に偏れば、「価値ある立派な経験」とジャッジされるなにも留学とかインターンとかコンクールや大会への参加とかボランティアとかキラキラ・社会貢献系の活動だけじゃない。いじめや困窮や病気や家族のケア等の逆境を乗り越えた!というストーリーも大人の好物だから→
直接的間接的にいろんな学校さんと関わってるけど、不登校が少ない・いない学校って「不登校減らそう!」と前のめりで取り組んでるより ・学級の枠が緩くて生徒が枠を超えて場所や関係性を作れる ・複数の教員が学級に関わる ・教員同士話し合う機会が多い がナチュラルに定着してるケースが多いなぁ
心から同意します。児童館(児童クラブ)の機能を削り、人を削り、予算を削り、なのに「サードプレイスとしての子ども食堂」を押すのは本末転倒です。私たちこども食堂は「隙間」にあってこそ意味があるんです。 twitter.com/d_furicado/sta…
安全な環境で育つことができない子が多くいる世の中で、「育てられないから」という理由で諦められる命がある世の中で、子どもの命と権利が軽んじられるこの国で、なぜ「産む/産ませる」ばかりが優先されるのか まず今・困難な環境に置かれた子たちが安全に養育されるための福祉を拡充してください
こんなに子どもを、母親を大切にしない国で「産む」ばかりが推奨される。使われるのは女性の身体、危機にさらされるのは女性の命。どんなディストピアだろう #代理出産合法化に反対します
そして「女性の身体を使うのも女性」になるんだよね…「産むべき」「産ませたい」世の中には男性の大きな声が反映されているとはいえ。   もうこれ『侍女の物語』以上のディストピアじゃん…
「社会のせいにするな」じゃなくて、「社会のせい」にした上で「その社会を変えるために構成員のひとりである私は何をすべきか」って話をした方がよくない?
「生きづらさ」を抱えた人が「生きづらさを生きていく」と言うのはあり。それもひとつのコーピングだから。「生きづらさ」というキーワードで連帯もできる。でも国がそれを言っちゃおしまい。生きづらさは構造の問題でそれは権威によって温存されている。構造の問題を率先して矮小化するな、ということ
「健康的な食生活」って高価なんですよね。調理には時間もかかる。困窮すると「野菜高すぎて疲れすぎて子どもに菓子パンばかり」になってしまう家庭は珍しくない。カロリーは安い、栄養は高いんです。体型から勝手に生活をジャッジされ批判される、まさに困窮する人が抱えるしんどさのひとつです twitter.com/mentalist_daig…
病気かもしれない、体質かもしれない、薬の影響の可能性もある。そして困窮すると食から削られ、削られることで逆にカロリー過多になることもある。どれも「若者世代」と無関係な話しではないよね
「通常学級がダメなら特別支援学級に行けばいい」と「学校がダメならここに来ればいい」は繋がってる。同じ。 「選べる」はずが「選ばされる」になってる。今は「分ける」に全振りしてるリソース(まず人と資金)を今後は「共に」が前提での「選べる」に回していくことが必要なんだと思う twitter.com/akinaln/status…
「ここに居られない子の居場所を作る」という名目で排除の構造が温存されているのは、特別支援教育も不登校も同じ。「分ける」がいちばんコストが低く済むから。とにかく教育にもっと人を、つまりたくさんの人が安心して働けるための予算を。
「こども食堂」を運営する側の大人(の一部)からほぼ定期的に「裕福(に見える)親が子どもを連れてくる」ことに対しての不満、利用を断ったりその子だけ有料にしたり「想定してた(生活困窮)層の子が来ない」ことを嘆くツイートが流れてきますが、子どもの「しんどさ」って困窮だけではないよね→
みんな苦しくなるだけじゃないかな
その子が「ここに来たい」という願いを裕福(そうに見える)であることを理由に私は断りたくない。親が「行ってほしい」と思う、その背景にある何かを軽んじたくない。そしてもし「裕福(そうに見える)子にだけ課金」「裕福(そうに見える)子は来ない」場所だと他の子や周囲の大人が認知したら?
そして困窮する人から声が奪われる。福祉が痩せ細る。世の中はより生きづらくなる。そもそも子どもを個とみなさない、親の生活状況や所得で子どもが受けられるサービスが制限されてしまうというのは福祉サービスの弱点なわけで、そこに「子どものために」を掲げる事業が乗っかってしまうのは残念に思う
あとここでミソなのは「裕福だ」ではなく「裕福そうに見える」ってことで。外車乗ってたり親がおしゃれしてたり高価なスマホ持ってるとかで「裕福だ」とジャッジしてる。でもそういう「見える」部分ってわりと最後に削られるんです。外から見えない部分、例えば「食」なんかがまず削られたりするんです
こうやって貧困がステレオタイプ化され「外車乗ってたり新しいスマホやゲーム機持ってたりおしゃれしてたら貧困じゃない」とか「貧困なのにそんなふうに見えてけしからん」っていう「本当に困ってる(ように見える)人探し」や「品行方正な困窮者探し」が始まって排除が進むんだと思う