子どもの支援や権利擁護に取り組む人たち(私たち)の中には子ども時代に学校や家庭に苦痛や理不尽があってそれが動機づけになっている人もいる。だから「子どものため」が自分の怒りや恨みを晴らすためにすり替わるリスクがある。子どもの声が聴けなくなる。聴けなくなっていることにも気づけなくなる
経験が活かされるのは「全く同じ経験をする人なんてどこにもいない」と「目の前の子どもはかつての子どもだった私とは別人」と「私はもう子どもじゃない」の3つがしっかり軸になっている時だと思う。どれかひとつでも揺らぐと、今ここにある声が聴こえなくなる
大人は子どもらしい子どもが好き。でもその子が困難に陥ると、途端に子どもらしさを取り上げる。しっかりしなさい、受け入れなさい、理解しなさい、決めなさい、努力しなさい、でも身の程を知りなさい。困難が深いほど早く大人にさせられる。子どもらしさという虚像を期待して、今度は身勝手に奪う社会
子どもに関わる仕事をしている人のアカウントで子どもとの(職場での)具体的なエピソードや会話や子どもの発言をツイートしている人見かけるけど、子ども本人の許可得てるのかな。守秘義務はもとより「子どもの声は子どものもの」って子どもの権利を守る基本だと思う。子どもは教材でもネタでもないよ
マインド、とひと言で言ってしまうと色んなものが見落とされるなぁと。子どもが違うテレビを観たがる時にそれぞれの子とちゃんと話す時間的心理的余裕があるか、子どもが何かを欲しがった時に諭す余裕があるか。この親さんの言うように「どうしようもない」状態だったりする。お金がないとそういった→ twitter.com/RiekoKomiyama/…
教員は社会を知らない、なんて雑なことを言うつもりはない。それを言うなら私だって私が経験するごく狭い「社会」しか知らない。でも教員が「一定以上の生活水準で生育した人が多数を占める集団」であって「学校という環境をサバイブできた人の集団」であることは事実で、その事実の共有は必要だと思う
性自認が揺らいでる子どもたち、その違和感には「私は(身体の性とは違う)〇〇かもしれない」だけじゃなく「〇〇でありたくない/〇〇であるのがしんどい」があったりする。身体の性別によって周囲から受ける眼差しや期待や抑圧のしんどさ、その性別を持つ他者の言動に感じる違和や嫌悪
SDGsだなんだということでこども食堂に寄付したりなんだりで「貧困問題に取り組んでます」な企業さん増えてきてますがそんなことより従業員の賃金上げて非正規の人たち正規雇用にして子育て中の親さんや若者を安心して働ける条件でたくさん雇ってください。その方がずっと効果的です
もちろん寄付は「よきこと」だけど片方の手でよきことをしてもう片方の手で誰かを搾取して貧困再生産続けるの卑怯だし、こども食堂は手軽に貧困問題取り組みアピールするための素材じゃないし、こども食堂にはいろんな必要性があるけどそもそも「貧困対策」になってるか(していいのか)って話だし、
「DVです」という訴えの中に「虚偽」を発見することは(私のキャリアの中では一度も)無いけれど、「DVは受けてません」という言う人の中にDVを発見することは多々ある。暴言、人格否定、行動制限や監視、生活費を渡さなかったり収入を取り上げたり。被害者も「殴られてないし…DVじゃないです」と言う
否定され貶められる体験が積み重なって「私は軽んじられて当然」と信じてしまうことすらある、その気持ちを汲みながら、本当はどうありたいのか、何がしんどくてここにいるのか、丁寧に聴く中で「歪み」に気づく。支配・被支配という構造に気づく。そしてやっと、逃げることを自分に許せるようになる
被害者でさえ「殴られてない叩かれてないのでこれはDVではない」と言ってしまうのが精神的DV。当然加害者もDVだなんてこれっぽっちも思ってない。だから「虚偽だ」となる。そして私は「虚偽DVを唆した悪者」になる。でも「いやいやそれはDVです!すぐ逃げて!」なんて「説得」することはめったにない
片方がもう一方を支配し、貶め、否定し、搾取する。そこに暴力がなくても、たとえその暴言が子どもに向かっていなくても、非対称の歪んだ関係性が子どもに与える影響は計り知れない。夫婦は多くの子どもが最初に観察する「パートナー」のかたちだから
だから子どももそこから「引き離す」のは、子どもを守るために妥当かつ必要な対処なんです
15歳の女の子を「要保護」としながら矢面に立たせて、大人は誰一人(今のところ)責任を取らない。キスクラでいったいどんな言葉をかけたのか。なんともモヤる終わり方。20年近くスケオタやってるけど特に平昌以降の女子フリーを見て辛くなることがしばしばある。女の子を搾取する世の中を映す鏡みたい
大人が子どもに対して抱く「感動させてほしい」という要求や期待を下げれば、子どもたちの負担も学校の負担も減ると思うんだけどな 大人を感動させることは子どもの、学校の役割じゃない
というのは、例えば「二分の一成人式」についてそろそろやめませんor変えません?という話を先生方とすると、「やめようとすると反対する保護者さんがわりといるんです…感動できるのにって」って言われることが度々ありまして。他の行事の類も似たような状況なのかも
戦争反対の声を綺麗事だと嗤う人たちがいるけれど、戦争を肯定する(反対しない)方がずっと綺麗事ですよ。安全な場所から、たとえ戦争が起きても犠牲になる心配をしていない人たちが言う、汚い綺麗事 #NoWar #нетвойне #Противійни
戦地で子どもと女性が避難し、男性が現地に残ることについて。まず、子どもは優先して避難させ守らなければならない。そのことに誰も異論は無いと思う。ではその子どもを誰が守るのか。さらに、戦時下において女性が性暴力の被害に遭うリスクは男性より高い
性暴力はなかなか語られない。戦時下の性暴力は、なおさら語られない。恥ずべきこととされ、不名誉なこととされ、誰も聞きたがらない。だから記録に残りづらい。私たちの目に触れない。でも事実そこにある、重大な被害
現地の女性たちはきっと、平和な国で戦争を自論の肉付けにして悦に入る人たちとは比較にならないほどの痛みを背負っている。私も安全な場所であれこれ言うひとりだけれど、彼らが背負う痛みを想像し、連帯の方法を探すことはできる。そうしたい。
見通しの立たない状況で祖国から離れ子どもたちを守る女性たちも、突然銃を手に取ることになった男性たちも、それぞれに痛みを引き受けている。その「女性と子どもが優先的に避難する」状況を、安全な場所にいる人たちが、「フェミニズム」を揶揄する道具にしている。ただ恥ずべきことだと思う
これは何度でも問いたい 食品を無駄にしない取り組みは大切 必要な人に優先して届ける仕組みも大切 でも「余り物はとりあえず子どもたち(含む社会的弱者)に与えておけばいい」という考えには抗いたい。「みんなが食べたいもの/食べるべきもの」になってから出直してほしい twitter.com/daisukefuricad…
「学校のルールがどんどん細かくなったことで、今まで問題がなかった子どもまで、あぶり出されるようになっている」 これに尽きると思う。子どもへの要求が高くなり応えられない子に診断が下される。幼稚園は「小学校の要求に応えられない」と推定される子に早期受診を勧める toyokeizai.net/articles/-/535…
いつかな。公共の場だと、例えば電車の中だったりすると、いつもより多く娘を叱っていることに気づいた。静かにしなさい、おとなしくしなさい、と。周りから非難されないために些細なことで先回りして叱っていた。周りの攻撃から娘を守るためだった。でも私が抗うべきは周りからの不当な攻撃だったんだ twitter.com/W7u8NXx595mJBu…