☆冷蔵庫(ひとり暮らし用) ☆洗濯機(ひとり暮らし用) ☆炊飯器 ☆掃除機 ☆電子レンジ ☆鍋やフライパン ☆寝具 ☆本棚やたんす、衣装ケースなど 他にも必要なものはあれこれあるので、もし「こんなのは?」というものがあればお問合せください→
「こども食堂が無い世の中に!」みたいな投稿がちらほら流れてくるけど同意しない。学校と家との間にふらっと立ち寄れる、枠を超えた関係性が築ける、そしていつもと違う人たちと美味しいごはんが食べられる、そんな場所を願ってこどもたちはやって来る。ただそれは「こども食堂」に限らなくていい→
どうも暴力的で支配的な人が(特に子どもやパートナーに対して)愛だの絆だの言いがちなのは、それが測定も評価もできないからなんだろうなぁ。あると言えばある、にできる。評価を許さない支配と抑圧。どうとでも言える愛だの絆だのより観察可能な行動の方が信頼できるし大切。愛より行動、絆より安心
そうなんだよね。もちろん理不尽な悪質クレーマーもいるけどある程度「厄介だな」と思われないと動いてもらえない実態はある。単独では断られた生活保護申請が支援職が同行すると通るのも同行者の力量というより「(断ったら)厄介だ」と思わせるから。当たり前に尊重されれば厄介者にならなくて済む twitter.com/readeigo/statu…
職種職域を問わず対人援助従事者が安定した(生活に不安なく、充分に休める)収入を得なきゃいけないのは、収入が不安定だとその穴埋めに対象者の行動や生活を管理し感謝や賞賛を要求するようになる危険があるから。支援と支配は表裏一体。支援を支配にしないために必要なのは倫理よりまず安定した賃金
誰のため・何のためのデータ利活用なのか。企業や学校がこのデータを「評価」のツールにするようなことは、絶対にあってはならない。人は変われる。変わる。いつでもリセットできる、やり直せる社会じゃなきゃいけない。学びはやり直しの重要な手段。過去が足枷になるようなシステムなら、要らない。 twitter.com/jijicom/status…
私をスポーツ嫌いにしたもの ①とりっこジャンケン ②連帯責任 ③体調不良を許さないマッチョ指導 ④人前で恥をかかされ嗤われる ⑤風邪で見学してるのに筋トレや雑草取りさせられる ⑥ドッジボールという名の暴力 ⑦昼休みなのに強制的に運動 学校の体育が無ければ嫌いにならんかったと思う
もしかしてスポーツが嫌いなんじゃなくて体育が嫌いだった…?ってことに気づいて運良くスポーツと「再会」したのは20代後半になってから。それからは誰とも比較しない、自分の身体や気持ちと向き合ってゆるく楽しむだけのスポーツをちょいちょい続けてる
スポーツと体育は別物。体育(学校)を通じてスポーツを「好きにさせる」のはただの抑圧にしかならないと思う。それに嫌いだっていいじゃん。
ほんまこの子の言う通り。大切なのはその人それぞれに必要な/可能な健康を維持する手段としての運動の機会確保で、好きや嫌いの問題じゃない。ただ「嫌いにさせる」要素満載な学校体育のあり方は見直してほしい。 twitter.com/ok_1teacher/st…
これはガチ。日本の変身系番組は「ダメなあなたを変える」だけどファブ5は個人だけでなく環境と関係性に働きかけながら「変える」ではなく「変わる」を助ける。自己価値観を損なうことなく水が流れるように自然と変わる。有機的に作用する多職種連携。差別等構造的問題を軽視しないソーシャルワーク twitter.com/akatachikako/s…
クィア・アイを観てもうひとつ思うのが、日本の「健康で文化的な最低限度の生活」の「文化的」の閾値が低すぎること。「生活や自立に役立つ」枠組みの中でしか測られず、多くが無駄と切り捨てられる。でも人を支え「自立」に導くの何よりもその無駄なものだったりする。おしゃれ、インテリア、音楽、 twitter.com/marikakonosu/s…
映画、美味しいごはん、ただ楽しい時間、好きに没頭する時間…(何らかの困難を抱えた人が)そこにお金や時間を割くことは罪であるという価値観が根強い限り、むしろ人の「自立」は遠のくし、この国はこのままゆるやかに衰退していくと思う。
我が子と、そして我が子以外の子どもたちと接してきて否応なく気づかされたのは、大人が「考えてごらん」と促した時に「大人が望む答え」をナチュラルに探してしまう子が大半だということ。理不尽に直面して「考えてごらん」と促されて「考えた」結果「やっぱり納得できません」と言える子は本当に少数
「考えてごらん」が「私の(大人の)望む答えを探してごらん」に変換されてしまう。それを逆手に取って理不尽が存命している。そして多くの大人がそれに胡座をかきながら子どもと関わってる。「子ども支援」のプロだって例外なく嵌まるリスクのある陥穽
同じように感じてる人がいてホッとした。過度なストレス、自己犠牲的な母親、胸が苦しくなる。学ぶって本来は楽しいもの。大学選択のために学力や適性をはかる必要はもちろんあるけど、子どもをこんなに痛めつけるシステムは不要だと思う。それを感動話に仕立てて商業利用するのもいやらしくて twitter.com/EcoG20/status/…
通信制学校や学校以外の学びを選ぶ子に「同年代と交流できる機会が無いと社会で困るぞ」と心配される教育関係者をお見かけしますが社会でむしろ有用なのは幅広い年代と関わり意見表明できたり1人で選び行動できる力で全日制学校がそれを教えてくれるわけでもないので余計なお世話オブ余計なお世話です
ネトフリ版新聞記者を一緒に観てる娘氏16歳。「政治ってどうせ全部上が決めるんでしょ?上が決めたって平和ならよくない?」というのが「若者の声」として描かれていることについて。「これって年配の人たちの考えだよね。勝手に若者像作って自分たちが延命させたものの責任を私らになすりつけないで」
実在の人物勢揃いの作品。今なお痛みを抱えながら闘ってる人もいる中でのフィクション化を手放しで賞賛することは躊躇われる。ただ権力が(抵抗の対象となる)パワーとしてではなくまるで幽霊のように描かれ、その曖昧な影に人々が怯える様子はとても「日本らしい」のではと感じた
「若者が政治に関心あるか・無関心か」ってことじゃなくて、「無関心のモデルとして安易に若者を使うな」なんですよ。
構造的に差別/搾取されている側が抵抗する時に権威を持つ側を脅かさない・怒らせない・不快にさせない物言いを当然のように要求されるの、ほんとしんどい。穏やかに「やめてください」と99回言っても通じなければ100回目にはブチギレる。でも権威側には最後の1回しか聞こえず「やりすぎ」と責められる
ダーウィン事変のこのセリフがまさにそうで。99回の小さく穏やかな「お願い」を聞き逃した、あるいは黙殺した相手がいくら怒ろうが不快になろうが、悪いけど知ったこっちゃないんです
でも彼らは「99回も言ってきたなんて嘘だ!聞いてない!不意打ちだ!」と言う。うん、だって聞こえていないんですもの。聞こえていないなら「無い」ことにされる。どこまでも平行線
最後には「聞こえるように言わなかったお前が悪い」と言われ、最初に戻る。いつまで続くのこれ