この「良かれと思ってされた不当な扱いを断る」の、本当にストレスなんですよね。
その後一度だけお誘いを受けて同じ店に入ったら、やっぱり店主が店員たちを怒鳴ったり激しく叱責する声がダダ漏れで。パワハラ店主が店員の勝手な判断を許すとは思えないからあの時私のメニューを勝手に変えたのは店主の指示だったんだろうな、なのに謝ることになった店員は気の毒だな、と思ったし
逆にもしかして店員さんの独断だったら私がお膳を突き返したことでもしかしてあの後普段よりもっと酷く怒られることになったりしていないかな、とか考えちゃって。こちらは頼んでないものを出されるという不当な扱いを受けた側なのに「配慮」を拒絶した申し訳なさが膨らんで
だいぶ昔のことだけど。他の客はみんなメニュー通りの定食を食べてたからメニューが変わったわけじゃない。意味がわからず配膳した女性(店主の配偶者らしい)に「頼んだものと違いますが何か事情でもあるのでしょうか。できれば頼んだものを出してください」と膳を返したら、
「そうですよね、すみません。生魚がお口に合わないかと思いまして」とすごく恐縮して謝られて、あまりに低姿勢でこちらが申し訳なく思ってしまうくらいで、まあ「まず確認してくださいねー」くらいで仕舞いにしたんだけど
なんだか度々店の奥で年配の男性店主がその女性やアルバイト女性を怒鳴りつける声が聞こえて来て、店員たちは接客時も表情暗くてびくびくしてて、何やらやべー店だなと思ってさっさと食べて帰った。美味しかったのに残念。で、もう2度と来たくなかったけど、
女性だからって水餃子の半分野菜にされたツイート同じ経験山ほどあるから共感して読んだけど、個人的に最悪の経験は海鮮系の食堂に入って日替わり定食(煮魚と刺身)頼んだら勝手にサラダ目玉焼きパンコーンスープにされたことかな。見た目「外人」だから魚もご飯も苦手だろうって「配慮」だったらしい
仕事してて「楽しい」って思う瞬間は確かにあるけど、それって大抵「思い通りにいった」時で。その心地よさにハマっちゃうと「思い通りにいく」ことを対象者に要求するようになって歪む。楽しい時ほど注意が必要。そんな因果な商売、続けるのはただ必要だから。それ以上何もない、何も求めてない。
ソーシャルワーカーを目指す学生さんにお話をする機会が度々あるけれど「仕事しんどいし恨まれたり攻撃されたり誹謗中傷も当たり前だし無関係な人からも誤解されるし、楽しさとかやりがい求めたら拗れるからそれを満たす場は別にちゃんとつくっておいてね」って話す→
対人支援を生業とする人がきちんと充分な報酬を受け取ること、きちんと休息をとり、好きなことを充分にやること、これは本当に大切。「仕事のために生きる」は誰にとっても良くない。でも特に対人支援職にとってはいちばん避けるべきものだと思ってる→
よく仕事は楽しいか、やりがいはあるかときかれる。私が仕事を続けるのは楽しさとかやりがいとは関係ない。ただ必要だから。傷ついた人(子)たちを支援し受け入れる仕事はむしろ楽しいとは真逆。受けるのは喜びより痛み、感謝より攻撃、誹謗中傷も日常。やりがいや楽しさに依存すると、詰む→
追記。そもそもこども食堂というシステムは「貧困対策」になり得ないわけで。しかしながら子ども食堂と貧困対策とを紐付けしたのは他ならぬこども食堂(を増やそうとしている)側で、その結果貧困のステレオタイプ化や貧困に見えない子の排除、スティグマの強化が進んでしまうとしたら本当に悩ましい
(今さらサードプレイスとか不登校支援とかコミュニティカフェとか多世代交流とか言い出しても遅いんだってば)
こども食堂ってそういう「支援サービス」なのかな?その役割を引き受けてしまっていいのかな?そうすることで本来担うべき場所の責任を免除してしまっていないかな?というところから、そろそろ吟味した方が良いと思います。
誰もがなんとかバランスを取ろうと、葛藤しながら、目の前の子たちの必要性に応える手立てを模索しているのだと思う。「裕福に見える家庭の子」を排除するのも、その限られたリソースの分配に苦慮した結果なのかもしれない。でも
子どものしんどさは貧困ばかりじゃない、も事実。貧困の子はその他のしんどさを抱えやすい、も事実。そして外から見えづらい貧困がある、も事実。誰でも利用できるが大切。そして限りあるリソースをより必要とする人に優先して提供するのも大切。「子どものため」の事業を行う人たちは、
こうやって貧困がステレオタイプ化され「外車乗ってたり新しいスマホやゲーム機持ってたりおしゃれしてたら貧困じゃない」とか「貧困なのにそんなふうに見えてけしからん」っていう「本当に困ってる(ように見える)人探し」や「品行方正な困窮者探し」が始まって排除が進むんだと思う
あとここでミソなのは「裕福だ」ではなく「裕福そうに見える」ってことで。外車乗ってたり親がおしゃれしてたり高価なスマホ持ってるとかで「裕福だ」とジャッジしてる。でもそういう「見える」部分ってわりと最後に削られるんです。外から見えない部分、例えば「食」なんかがまず削られたりするんです
そして困窮する人から声が奪われる。福祉が痩せ細る。世の中はより生きづらくなる。そもそも子どもを個とみなさない、親の生活状況や所得で子どもが受けられるサービスが制限されてしまうというのは福祉サービスの弱点なわけで、そこに「子どものために」を掲げる事業が乗っかってしまうのは残念に思う
その子が「ここに来たい」という願いを裕福(そうに見える)であることを理由に私は断りたくない。親が「行ってほしい」と思う、その背景にある何かを軽んじたくない。そしてもし「裕福(そうに見える)子にだけ課金」「裕福(そうに見える)子は来ない」場所だと他の子や周囲の大人が認知したら?
「こども食堂」を運営する側の大人(の一部)からほぼ定期的に「裕福(に見える)親が子どもを連れてくる」ことに対しての不満、利用を断ったりその子だけ有料にしたり「想定してた(生活困窮)層の子が来ない」ことを嘆くツイートが流れてきますが、子どもの「しんどさ」って困窮だけではないよね→
みんな苦しくなるだけじゃないかな
「ここに居られない子の居場所を作る」という名目で排除の構造が温存されているのは、特別支援教育も不登校も同じ。「分ける」がいちばんコストが低く済むから。とにかく教育にもっと人を、つまりたくさんの人が安心して働けるための予算を。
「通常学級がダメなら特別支援学級に行けばいい」と「学校がダメならここに来ればいい」は繋がってる。同じ。 「選べる」はずが「選ばされる」になってる。今は「分ける」に全振りしてるリソース(まず人と資金)を今後は「共に」が前提での「選べる」に回していくことが必要なんだと思う twitter.com/akinaln/status…
病気かもしれない、体質かもしれない、薬の影響の可能性もある。そして困窮すると食から削られ、削られることで逆にカロリー過多になることもある。どれも「若者世代」と無関係な話しではないよね