数冊の本が彼女の無邪気な楽しみを奪った。でも奪ってよかった。本人も奪われてよかったと感じている。 それが多分、知るということ。
外からの、そこから離れられる人たちからの、差別や偏見だけでない、時に無邪気でむしろ善意や好意からのジャッジメントがマイノリティの声を遮ってしまう。「悪気はないんだし」で対話や反論が封じられてしまう。その積み重ねだったんだろうねと。だからまず「知る」「聴く」があるはずだよねと
1週間弱親元を離れて沖縄に滞在する高2娘氏。上間陽子さんの本を読んでからの離陸。到着後同じく本土から来た関係者(教員)が挨拶で「沖縄良いところだよね!住みたい!」と言っていたことに対してとっても「もやった」と。これが上間さんの書いていた「声が届かない」と言うことなんじゃないかと
「話の聴き方(いわゆる傾聴の技法)」について研修講師を依頼されることが度々あるけど、話の聴き方よりも「なぜ話が聴けなくなるのか」を知る方が大切だと思う。相手との関係性、自分の状態や欲求、自分の中で何が起きているかと何がそれを引き起こしているのか、その原因と対処
「ひとりでいたい」「秘密を持ちたい」という自由が守られないと「つながり」なんて苦しいだけだし、「NOと言う」「文句を言う」権利が守られないと支援なんて受け入れたくない。それが当たり前。
約束を守らない、容姿をからかう、人前で貶める、勝手に私物を捨てる、嘘をつく、無断でプライバシーを他者に晒す、他人には絶対にやらないことを「親子だから」で許されると思ってる。それは支配。「親子だから」で許されると思ってる「よくある子育てトラブル」も、ニュースになるような虐待も、
思春期。そんな言葉に甘えて目の前の子どもの声から耳を塞ぎ続けるなら、そう遠くないうちに見限られると思う。親が、子どもから。見限られるならまだいい、見限ることができず葛藤を抱えたまま添い続ける子もいる。そうなったら、親はただの暴君です
「親が嫌いです」という子がいる。親は「反抗期で」「思春期で難しい時期なんです」と言う。子どもたちからよくよく話を聞くと「そりゃ嫌いになって当然だわ」ということを言われたりされたりしている。それを親に伝えると「親子なんだからそのくらい許される」と思ってることがわかる。親子、反抗期、
不機嫌で他者をコントロールする大人がかつて身近にいたせいか、今も大きな足音やドアを閉める音を聞いたり話しかけても返事がないと心臓がバクバクして手に汗をかいてしまう。そして「不機嫌で他者をコントロールできる」ことを学んでしまったので、自分も子に対してそうしてしまうのではないかと怖い
クーポンにしても「こども食堂支援」にしても根本的な課題には触れずに小手先の「わかりやすい」施策がまかり通るのは、仰る通り「チョロいモノ」という発想があるのだと思います。そしてその発想を支えている「子育ては親の責任」という規範意識はまだまだ多くの人の中にこびりついていて、 twitter.com/takebata/statu…
お願いだからさ、そろそろ「今生きている子たち」を幸せにする政策をきっちり出してください。今生きている子たちが大切にされない世の中で「これから生まれてくる子どもたち」が大切にされるわけないんだから。
産み控えって…「10万円もらえるなら産むか!」ってなると本気で思ってのかな。そしてお金がかかるのはむしろ中学生〜高校生。こんなんより児童手当18歳まで延長・増額・所得制限撤廃をはよ。 >0~2歳児がいる家庭に子育てクーポン支給 「産み控え」解消狙い | 毎日新聞 mainichi.jp/articles/20221…
逆境は言葉と機会を奪う。「当事者の声」を聴くことは本当に大切で、あらゆる活動や制度設計と中心に置かれるべきだけど、人が「声を上げられる」ようになる時は既に「元当事者」であることがほとんどだったりする。特に子どもの困難については。当事者であった人たちの声を中心にしつつ、でも
貧困の中を生きている子ほど「こども食堂」の必要性が高いのはひとつの事実です。ですが、貧困により社会的孤立のリスクが深まるほどこども食堂に繋がることは難しくなります。私たちは無力です。私たちを中継したのでは必要な支援が届かない人たちがいます。政治にしかできないことをしてください
こども食堂は社会的孤立という課題における制度の「隙間の居場所」です。サードプレイスとしての意義はありますが貧困対策ではありません。貧困対策にしてはいけません。私たちへの支援を「子どもの貧困対策やってる風」の宣伝材料にしないでください。ひとりのこども食堂運営者からのお願いです twitter.com/kishida230/sta…
様々な抗議活動も草の根の市民活動も、瞬間的なインパクトよりも継続性が大切。そのために自分たちの生活と健康を傷つけずにどう続けていくかをそれぞれが模索してる。時に小さく、泥臭くあるのはそのため。その小ささをぬるいと感じたり泥臭さが不快だと言えるのは、無関係で安全な場所にいるから。
「分断を許さない」「対立をやめよう」って、ぜひ分断や対立という構造を生み出している側に向かって大きな声で言ってください。分断も対立も、権威が生み出した構造です。それに抗う人たちに向かって「やめよう」と言うのは、「黙れ、服従しろ」と同義です。
(承前)これ「こども食堂」にも同じことが起きてると感じてて。目の前の人の・当事者の声と必要性から草の根で始まった活動に対してどこかから「コーディネートしますよ」と言い出す人たちが現れて組織化されて謎に大きくなって色々と歪んだ。お金の流れも含めて。
詰む「善行」によって、困難を引き寄せる属性から・困難のある場所から動くことができない人たちが踏み躙られていくのはもうこりごりです。
我々の現場、女性支援・困窮者支援の現場でもあるあるです。そしてそういう「助言」をする人たちもまた「世の中を良くするため」の活動や発信をしていたりする。関わらずにいられるのにわざわざ関わる姿勢を「善行」と呼ぶのかもしれない。でも関わらずにいららる特権を手放さず、特権に意識を向けずに
今までろくに関心を向けてこなかった事柄に対して、その事柄に「無関係でいられる特権」を持つ人が、突然「そのやり方じゃ理解されませんよ」「アップデートしましょう」と言い出す。そうやって当事者の、現場の声が軽んじられ捻じ曲げられ続けてるんですよ
「本当に厳しい家庭」の線引きは誰がするのでしょうか。誰にもそんな権限はありませんし、本当に困っている人探しの行き着く先は排除です。子どもたちの・ご家庭の抱えるしんどさは困窮に限りません。子ども食堂は子どもたちの場、子どもたちが行きたいと願うのであれば、ぜひご利用ください。 twitter.com/nocchi50210545…
当県で開催された「SDGs博」のニュースを読んだ。環境、ダンス、食、復興… 貧困や差別、ジェンダー平等といった言葉はどこにもない。「みんなが不快にならないきれいなテーマ」でその「みんな」から排除されている人たちの困難、構造的問題を塗り潰す。ある意味とっても日本のSDGsイベントっぽいなと
マイノリティ(数の問題じゃないよ)のしんどさって不当な扱いを受けることだけじゃない、この「良かれと思ってされた害のあること」を拒絶する時に生じる摩擦のストレスもある。多いにある