KAKECOMIの事業の多くの部分が寄付によって運営されている事実はオープンにしています。そのことに「感謝」する子もいるでしょう。でも私たちは子どもたちに感謝の心なんて期待していません。当たり前に、むしろ図々しく守られて助けられて権利を主張してほしい
たまに「寄付した返礼に子どもたちからの感謝の手紙がほしい」とリクエストされることがありますが、お断りします。心地の良い場所も食事も危機からの避難場所も本来子どもたちが当たり前に得るべきものです。当たり前のことへの感謝は大切、でもそれは誰かから強制や期待されるものではないと考えます
もしちょっとだけ欲を出せば、もし子どもたちが大人になって「そういえばたべまなってところがあって、あれって寄付で支えられてたんだなぁ」って思い出して、もしそのことに「感謝」して、もし何かの形で返したいと思ったら、それはたべまなを支えてくれた大人ではなく次の世代にであってほしい
かといって、今が「地域で子どもを見守る」社会になったかと言ったらもちろんそうではなくて。「繋がり」はたしかに希薄になってる。でも人権意識を欠いた中で「繋がり」だけ密になっても、イコール子どもを守るにはならないよ。
そもそも「昔」っていつなんだろうって思う。その人のイメージの中にしかない時間軸なんじゃないかな。今よりも人権意識低くて家父長制バリバリで子どもや女性を虐げるのがずっと当たり前だった「昔」しか、私は知らないけどな。
「昔は今よりも地域の繋がりが強くて子どもを見守る目がありましたよね。近所の雷親父とかお節介おばさんとか」と言われることがあるけど同意しない。子どもが地域社会から「逸脱」しないよう見守る目はあった。でも家庭の中で安全に過ごせてるかについては、今以上に「見ない、触れない」だったと思う
「子どもが好きです」という人たちの中には、個としての子どもではなく「子どもらしさ」が、つまりその人が勝手に子どもに期待する性質(例えば無邪気さとか無垢さとか天真爛漫さとか)が好きな人が一定数いるから、ちょっと警戒する。
学校や部活や習い事や、仕事なんかも、自分でやろうと決めて始めたことが思ったようにいかなくてやめたくなると、「自分で決めたくせに」「自分で選んだんだから諦めるな」と叱る人がいる。うん、そうです。自分で選んで決めて始めたことだから、やめるときも自分で決めていいんです。
「かつて子どもたった経験(当事者性)」は「子ども支援」において重要な内的リソースだけれど、「でも今は大人である(当事者ではない)」という軸を持ち合わせていないと目の前の子どもの権利を(非意図的に)侵害することになる。「今ここ」を生きる子どもたちは、かつて子どもだった私じゃない
子どもの判断と意思は尊重されるべき。ゆえに、大人の欲のために利用されてはいけない。だから大人の行動を制限する必要がある。そのための年齢引き上げだと思う。大人だって間違える。子どもも間違える。間違えることは、意思や判断が「できない」という理由にならない
RT)性同意年齢の引き上げに賛成なのは言うまでもなく、ここぞとばかりに慎重論を持ち出して興奮気味に反対する大人たちを軽蔑もする。だだ私が賛同するのは「子どもは未熟で間違えるから判断できない」という理由ではなく、「子どもが間違えることを利用する大人を罰しよう」という意図においてのこと
私が13歳の時、そして14歳の時も、15歳も16歳もそれはそれは未熟だった。自分の安全も権利も、それが侵されることも理解してなかった。でも、私がかつて未熟で無知でたとえ「意見」なんて持っていなかったとして、目の前の子どもが同じとは限らない
私たちはかつて子どもだった。でも今は違う。「自分がかつて未熟で無知な子どもだった」ことは、目の前の子どもを未熟で無知だとジャッジする根拠にはならない。性同意年齢引き上げには賛成だけど「自分がかつていかに未熟だったか」を語り今ここにいる子どもの主体性を否定する文脈には危うさを感じる
私たちは自分の人生しか生きられないわけで、つまり78億分の1の生き方しか経験できない。子どもが自分と違った生き方を選ぼうとした時、たかだか78億分の1の生き方しかしていない親がその軸で正解だの不正解だの成功だの失敗だのとジャッジできるはずがないんだよね。
仕事をするには、住居が必要。田舎では車も必須。業務に相応しい服装や靴も必要だし、持病があるなら治療もしなきゃいけない。仕事を始めるにはお金がかかる。だから「お金がない、助けてください」って窓口に来た人に開口一番「仕事を探しましょう」って言うのやめてほしい
保健室って学校の中のクリニックだと思うの。だから「授業に戻らないと単位やばいよ」とか「休んでばかりだと勉強遅れちゃうよ」とか、そういうの要らないんです。病院で「通院なんかして仕事大丈夫ですか?」「病院に来たら出世に響きますよ」って言われたら苦しいですよね。要らないんです。
その人が元教員とかだったりすると「ちょっとはまともな時代になったのかもね令和」と思うけど、同時に現役の民生委員さんだったりすると急速に萎える。昔話を聴いてほしければ別の場所でどうぞ。
ヤングケアラーについての会議で「昔は学校休んで家の手伝いなんて当たり前だった」って言ったり性的虐待についての話の中で「昔は10代が父親と風呂入るなんて当たり前だった」って口を出してくる御年配の人がいるけど勝手にそう思ってくれていいから黙っててください。もうあなたの時代ではありません
ぱっと見、感動できる風。でも心に小骨が刺さったみたいになるのは、明らかにそこにある差別構造が「女の子が頑張ればなんとかなるよっ!」って自助努力の問題に矮小化されてしまってるからなんだろうな。私たちにガラスの天井をぶち破る努力を課す前に、ガラスの床を踏みつけてる足をまず退けてほしい twitter.com/nikejapan/stat…
私は障害のある子を育てた経験はないけれど、娘氏が学校に行けなかった時、例えばそれでもテストで良い点をとってくれば「これで落ちこぼれない」と安心したり、習い事が順調だと「こっちの道で生きていけるかも」と期待した。いつも「不登校だけど」の先の何者であるかを期待してた。きっと、今もまだ
その好きや得意に「社会的な価値があること」や、雑に言えば「お金と名声につながるもの」を求めてしまう。ただ大人の側に子どもを抑圧しようという意図はなくて、社会的に有用でなくなった時に排除される現実の中を綱渡りで生きている大人たちにとって後に続く子どものための命綱のつもりだったりする
ただ、それでも流れは「良い方」に進んでいると思います。ひと昔前まではそんな「危うさ」を感じる余地すらなかったから。多くの当事者が声を上げ続けて、当たり前の権利やチャンスを訴え続けて今がある。そしてこの先も続いてる。
大切なのは誰もが不当な扱いを受けないことと、何歳になってもいつでもチャレンジできる機会が守られていること。日本ではまだ実現されてない。そんな社会で「障害があっても」「不登校でも」を語ることは、生産性という縄で子どもを縛ることと紙一重の危うさがあると思う
障害は個性、不登校は不幸じゃない。現場でもそんな言葉が聞かれる。その個性や「不幸じゃない」の中身を尋ねると、絵が得意だからアートで活躍してほしいとかプログラミングが好きだからその道に進んでほしいというような願いが(大人から)語られる。「社会の評価」から抜けられない息苦しさを感じる
生産性至上主義の価値観にどっぷり浸かって大人になった私たちが描く個性や幸せが、社会にとって有用でありかつ承認されるという枠を越えることは難しい。「障害があっても」「不登校でも」という「でも/だけど」という接続詞を使ってしまう。子どもの「好き」や「得意」を大切にしたいと願っても、