女性の=性差関係なく他者のプライベートゾーンを触ることの何がいけないのか分からないまま大人になってしまったらしい人が、何がいけないのか分からないまま子どもたちの前でこういった行いをすれば、子どもたちは何がいけないのか分からないまま育ってしまう。   知ってください。これは性加害です twitter.com/sakai_kazuyosh…
知りもしない2人の結婚の是非についてあれこれ言うつもりはないけど、「男性に女性を養えるだけの稼ぎがあるか」が度々話題になるのが疑問。女性も大学まで学んで幼少期から公務というキャリアを積んでる。それを活かして働く道はたくさん思うんだけどな。なぜ彼女は「養ってもらう」前提なんだろう
これは私も常に「もやって」るところ。自分の活動に対してね。 性被害に遭う、そしてパートナーから暴力や搾取を受ける比率は女子/女性の方が高い。だからうちは女性を優先して受け入れるし、性被害者にとって男性との共同生活は心理的安全を損なうから親子の場合中学生以上の男子は受け入れてない→ twitter.com/maitonkm/statu…
「子ども支援」してると「子ども好きなの?」と訊かれることが度々あるけど、子どもを中心に支援するのは行使できる権利が最も制限され、故に最も搾取される存在だから。好きか嫌いかなんて関係ない。そもそも「子ども好きなの?」って質問自体が大人と子どもとの非対称性を表してる。それが支援の理由
不登校の子を持つフルタイムひとり親に対して「一人で過ごす時間が多い」「放置してる」っつっても、だからどうしろと?そう言うなら働く時間減らしても充分生活していける資金か昼間「見守り」してくれる手立てを出してくださいな。対人援助職としてそれができないなら、黙ってようね
某大手動画配信サイトで911ドキュメンタリーを観た。娘氏「すごく大規模で悲惨なテロ。でも同じような攻撃がアフガンとかシリアとかイラクで起きたらこういうドキュメンタリーが作られて世界中に配信されるかな」 歴史は何が起きたかだけじゃない。誰によって語られるか。
生存権の話をしてるのに優しさとか思いやりとか絆とかの話にいつの間にかすり替わるの、なんでだろ。
「居場所づくり」とか「居場所をつくりたい」ってつい私も使っちゃう言い方だけど、やっぱ嫌だなぁと。居場所は作るものじゃない。他者が勝手に作った枠に誰かを押し込めてもそこが「居場所」になるわけじゃない。居場所は作られるものじゃなく、人と空間の有機的なつながりのなかで「なって」いくもの
「トラウマだ」って気づいた時から変われる。たくさん失っても、そこからまた新しい関係性や生活を構築できる。でも失ったものは取り戻せない。トラウマを癒すことよりも、トラウマによる色眼鏡をかけて生きていく中で誰かを傷つけてしまった、その痛みを癒すことは難しい。だから気づきは早い方がいい
トラウマ・インフォームドな見方は「好きで不幸になってる」ように見える当事者が自分の色眼鏡に気づき外すのを助けるし、その周囲の人が安全な距離と境界線を維持し自分を守るのを助けもする。「トラウマ」は支援を生業にしているか否かに関わらず、誰にとっても今いちばん必要な「気づき」だと思う
「支援」に繋がることは難しい。自ら支援を避けるようなことすらしてしまう。だって自分にはその価値が無いから。支援に繋がっても、その時点であたり一面焼け野原、周囲にダメージを与え、自分もひとりぼっちになって、燃えかすになってしまっていたりする。かつての私がそうだった
好きで不幸になってるように見える人からはみんな離れていく。どんどん孤立する。自分で自分のことが嫌いになる。そして「自分には価値がない」という眼鏡の色はどんどん濃くなって、行動は自滅的で周囲も自分も傷つけて大切なものを失って貧しくなっていく
「自分には価値がない」という色眼鏡をかけ続けてると誰かを信頼し助けを求めることが難しくなり、行動は自滅的になり、良くない選択ばかりして、周囲を振り回す不安定な関係を繰り返してしまう。色眼鏡を作るのはトラウマ。逆境環境を生きた人は「好きで不幸になってる」ように見えてしまう時がある
経済的搾取や心理的虐待などで「危険度が低い(怪我しない死ぬことない)」と評価されて行政の保護や介入を受けられず「ちょっと我慢して自立しようね」等と言われ、逆境的環境に放置されじわじわと力が削がれ、やがて「逃げる」力も奪われてしまう。シェアハウスはそんな「制度の隙間」の人たちの家→
大学進学が全てだ思わないし、多様な選択があっていい。スキルを身につけて早くから働いてキャリア積むのもあり。高校で、あるいは中学で「これだ!」って道を見つけたらそのまま進めばいい。なんとなく大学に行くのだってあり。どの道を選んでも不利益を被らない、誰からも搾取されないことが大切
東大か他大学か以前に、大学進学が「機会」として視野に入るかどうかにおいてまず明らかに環境を要因とする差がある。それは決してフィクション(呪い)ではない。ましてやその「呪い」解くためには不遇な子が自力でチャンスを掴んだ「物語が必要」というのは、自己責任論以外の何物でもないと思う
いくら給付型奨学金を拡充しても届かない、大学進学が「チャンス」として自分と紐付けられない子たち。その子たちの育つ環境を家庭の文化資本(あるいは地域の文化資本)と呼ばずに何と呼ぶのだろう。文化資本って家に本がたくさんあるかとか親が教育熱心だとか、そういうことじゃない→
特権に無自覚になれる特権って、こういうことなんだろうな。
この地域には「大学に進学する」という選択肢がほとんど生まれながらに人生から除外されている子たちがいる。たくさんいる。親含め身内に大卒者がいない、身近に大学もない、周りの大人と同じように高校(時に中卒)で働くことが既定路線。大学という存在は知ってても、自分の選択に紐付けできない→
「大学行きたいけどお金ないしなぁ」「進学したいけど親が反対するしどうしよう」じゃない。そこまで行かない。ずっと以前の話。高卒(中卒)で働いて家の稼ぎ手になる、それが当たり前、そうやって経済や文化が回ってきた世界で生きてる子たち。進学も就職も選択じゃない。選択の機会がない→
一度逆境的環境に置かれると、そこから抜け出すために学力や自己表現において「そうでなかった子たち」よりもずっと高いレベルを求められる。チャンスを広げる目的で、厳しい要求と競争が課されている。そしてお金の不安が解消されなければ、入試にすらチャレンジできない
願いが実現する手応えを感じた経験に乏しく「今ここ」の安全も危ういと、夢や目標を「第三者に応援してもらえる」言葉にまとめる作業は難しいししんどい。でも大学に行きたい、学んで何者かになる手がかりがほしい、そんな子たちがただ「行きたい」という理由で入試にチャレンジできる社会がいい
それが必要なのは分かる。そして点数で正当な評価を受ける機会を逸していた子たちにとってナラティブで評価されるチャンスは「配慮」だとも言える。 でもね、環境が違っていたら「とりあえず大学に行って色々勉強したい!何になるかはそれから決める!」でOKなんだよね。だから、ただただキツいなぁと
虐待や経済搾取を受けて諸事情で新制度が利用できない子たちが使える奨学金等を調べてるけど、どこも将来の夢や大学での目標をかなりのボリュームで具体的に書かなきゃいけないのなかなかしんどい。安全が守られ「やりたい」が実現できた、そんな機会が乏しいと「未来」について書くのは難しいしキツい
目の前の人が心理的負荷や葛藤(そして時間的制約や移動等の負担)を乗り越えて、あるいはそうせざるをえないほど追い詰められて、そして相談することと引き換えに何かを損なっているかもしれないことを前提に、自分の振る舞いに意識を向けたい。相談は受けるよりする方が、多分ずっと難しい。