大人が子どもに対して抱く「感動させてほしい」という要求や期待を下げれば、子どもたちの負担も学校の負担も減ると思うんだけどな 大人を感動させることは子どもの、学校の役割じゃない
15歳の女の子を「要保護」としながら矢面に立たせて、大人は誰一人(今のところ)責任を取らない。キスクラでいったいどんな言葉をかけたのか。なんともモヤる終わり方。20年近くスケオタやってるけど特に平昌以降の女子フリーを見て辛くなることがしばしばある。女の子を搾取する世の中を映す鏡みたい
だから子どももそこから「引き離す」のは、子どもを守るために妥当かつ必要な対処なんです
片方がもう一方を支配し、貶め、否定し、搾取する。そこに暴力がなくても、たとえその暴言が子どもに向かっていなくても、非対称の歪んだ関係性が子どもに与える影響は計り知れない。夫婦は多くの子どもが最初に観察する「パートナー」のかたちだから
否定され貶められる体験が積み重なって「私は軽んじられて当然」と信じてしまうことすらある、その気持ちを汲みながら、本当はどうありたいのか、何がしんどくてここにいるのか、丁寧に聴く中で「歪み」に気づく。支配・被支配という構造に気づく。そしてやっと、逃げることを自分に許せるようになる
被害者でさえ「殴られてない叩かれてないのでこれはDVではない」と言ってしまうのが精神的DV。当然加害者もDVだなんてこれっぽっちも思ってない。だから「虚偽だ」となる。そして私は「虚偽DVを唆した悪者」になる。でも「いやいやそれはDVです!すぐ逃げて!」なんて「説得」することはめったにない
「DVです」という訴えの中に「虚偽」を発見することは(私のキャリアの中では一度も)無いけれど、「DVは受けてません」という言う人の中にDVを発見することは多々ある。暴言、人格否定、行動制限や監視、生活費を渡さなかったり収入を取り上げたり。被害者も「殴られてないし…DVじゃないです」と言う
もちろん寄付は「よきこと」だけど片方の手でよきことをしてもう片方の手で誰かを搾取して貧困再生産続けるの卑怯だし、こども食堂は手軽に貧困問題取り組みアピールするための素材じゃないし、こども食堂にはいろんな必要性があるけどそもそも「貧困対策」になってるか(していいのか)って話だし、
SDGsだなんだということでこども食堂に寄付したりなんだりで「貧困問題に取り組んでます」な企業さん増えてきてますがそんなことより従業員の賃金上げて非正規の人たち正規雇用にして子育て中の親さんや若者を安心して働ける条件でたくさん雇ってください。その方がずっと効果的です
性自認が揺らいでる子どもたち、その違和感には「私は(身体の性とは違う)〇〇かもしれない」だけじゃなく「〇〇でありたくない/〇〇であるのがしんどい」があったりする。身体の性別によって周囲から受ける眼差しや期待や抑圧のしんどさ、その性別を持つ他者の言動に感じる違和や嫌悪
教員は社会を知らない、なんて雑なことを言うつもりはない。それを言うなら私だって私が経験するごく狭い「社会」しか知らない。でも教員が「一定以上の生活水準で生育した人が多数を占める集団」であって「学校という環境をサバイブできた人の集団」であることは事実で、その事実の共有は必要だと思う
マインド、とひと言で言ってしまうと色んなものが見落とされるなぁと。子どもが違うテレビを観たがる時にそれぞれの子とちゃんと話す時間的心理的余裕があるか、子どもが何かを欲しがった時に諭す余裕があるか。この親さんの言うように「どうしようもない」状態だったりする。お金がないとそういった→ twitter.com/RiekoKomiyama/…
子どもに関わる仕事をしている人のアカウントで子どもとの(職場での)具体的なエピソードや会話や子どもの発言をツイートしている人見かけるけど、子ども本人の許可得てるのかな。守秘義務はもとより「子どもの声は子どものもの」って子どもの権利を守る基本だと思う。子どもは教材でもネタでもないよ
大人は子どもらしい子どもが好き。でもその子が困難に陥ると、途端に子どもらしさを取り上げる。しっかりしなさい、受け入れなさい、理解しなさい、決めなさい、努力しなさい、でも身の程を知りなさい。困難が深いほど早く大人にさせられる。子どもらしさという虚像を期待して、今度は身勝手に奪う社会
経験が活かされるのは「全く同じ経験をする人なんてどこにもいない」と「目の前の子どもはかつての子どもだった私とは別人」と「私はもう子どもじゃない」の3つがしっかり軸になっている時だと思う。どれかひとつでも揺らぐと、今ここにある声が聴こえなくなる
子どもの支援や権利擁護に取り組む人たち(私たち)の中には子ども時代に学校や家庭に苦痛や理不尽があってそれが動機づけになっている人もいる。だから「子どものため」が自分の怒りや恨みを晴らすためにすり替わるリスクがある。子どもの声が聴けなくなる。聴けなくなっていることにも気づけなくなる
最後には「聞こえるように言わなかったお前が悪い」と言われ、最初に戻る。いつまで続くのこれ
でも彼らは「99回も言ってきたなんて嘘だ!聞いてない!不意打ちだ!」と言う。うん、だって聞こえていないんですもの。聞こえていないなら「無い」ことにされる。どこまでも平行線
ダーウィン事変のこのセリフがまさにそうで。99回の小さく穏やかな「お願い」を聞き逃した、あるいは黙殺した相手がいくら怒ろうが不快になろうが、悪いけど知ったこっちゃないんです
構造的に差別/搾取されている側が抵抗する時に権威を持つ側を脅かさない・怒らせない・不快にさせない物言いを当然のように要求されるの、ほんとしんどい。穏やかに「やめてください」と99回言っても通じなければ100回目にはブチギレる。でも権威側には最後の1回しか聞こえず「やりすぎ」と責められる
「若者が政治に関心あるか・無関心か」ってことじゃなくて、「無関心のモデルとして安易に若者を使うな」なんですよ。
実在の人物勢揃いの作品。今なお痛みを抱えながら闘ってる人もいる中でのフィクション化を手放しで賞賛することは躊躇われる。ただ権力が(抵抗の対象となる)パワーとしてではなくまるで幽霊のように描かれ、その曖昧な影に人々が怯える様子はとても「日本らしい」のではと感じた
ネトフリ版新聞記者を一緒に観てる娘氏16歳。「政治ってどうせ全部上が決めるんでしょ?上が決めたって平和ならよくない?」というのが「若者の声」として描かれていることについて。「これって年配の人たちの考えだよね。勝手に若者像作って自分たちが延命させたものの責任を私らになすりつけないで」
通信制学校や学校以外の学びを選ぶ子に「同年代と交流できる機会が無いと社会で困るぞ」と心配される教育関係者をお見かけしますが社会でむしろ有用なのは幅広い年代と関わり意見表明できたり1人で選び行動できる力で全日制学校がそれを教えてくれるわけでもないので余計なお世話オブ余計なお世話です