家賃かからないならその分は出ません。事前に水光熱費含む実費負担の実績から概算し、ほんと最低額しか出ません。それも施設に直接ではなく利用者さんの受け取りです(これは条件によって異なります。あくまでうちは、の場合です)。なので施設が「儲ける」ことなんてできないんです→
教員は社会を知らない、なんて雑なことを言うつもりはない。それを言うなら私だって私が経験するごく狭い「社会」しか知らない。でも教員が「一定以上の生活水準で生育した人が多数を占める集団」であって「学校という環境をサバイブできた人の集団」であることは事実で、その事実の共有は必要だと思う
もちろん既に法的な裁きを受けた人のプライバシーを暴き私的制裁を加えるようなこともあってはなりません。ですがこの記事は「性加害とは」「良い教師とは」という点からズレており、当然多くの人からそう指摘され、結果として死者に鞭打つことになっています。二重三重に加害的な記事です→
子どもに対してついつい「自分が学生の時にされて良かったこと」を軸に助言しがちなんだけど、その「良かった」って記憶が事実とは限らない。その時は苦痛で、苦痛だったからこそ何かの価値や意味を付与したくて、記憶の中で良かった=価値あるものに変換されてることもある。体罰容認は大抵これ
「本当に厳しい家庭」の線引きは誰がするのでしょうか。誰にもそんな権限はありませんし、本当に困っている人探しの行き着く先は排除です。子どもたちの・ご家庭の抱えるしんどさは困窮に限りません。子ども食堂は子どもたちの場、子どもたちが行きたいと願うのであれば、ぜひご利用ください。 twitter.com/nocchi50210545…
ほんとそう。「多世交流」を銘打った場所で子どもが大人のケア役になったり大人が子どもの過ごし方に口うるさく介入したりで結局子どもが居心地悪くなったり「いい子」になっちゃって…なんてザラです。喜んでるのは支援者だけ twitter.com/lessor_tw/stat…
発言力と引き換えに想像力を失ってしまったような人がいる。私たちはおしなべて、誰もが、生活保護を受ける可能性を持つ。ホームレスになる可能性があった。毎日ちゃんと目を開いて人の言葉に耳を傾けて生活していれば、そう想像するのは難しくないはず。「人の心が読み取れる」と豪語するなら尚のこと
「子どもたちに」でもあり「社会に」でもあるんだろうな。昔は学校に合わない「少数派」を切り捨てても回っていく社会だった。今はそうじゃない。そして今や少数派ではなくなっているし、子どもたちが触れる情報量も増えて色んな「おかしい」に気づきやすくなってる。
仕事してて「楽しい」って思う瞬間は確かにあるけど、それって大抵「思い通りにいった」時で。その心地よさにハマっちゃうと「思い通りにいく」ことを対象者に要求するようになって歪む。楽しい時ほど注意が必要。そんな因果な商売、続けるのはただ必要だから。それ以上何もない、何も求めてない。
シェルターの運営(水光熱費や食費含む)が全額委託費の団体さんもあるかもしれません。その場合も利用者が自己負担しない部分は出ません。しっかり調査されますから。つまりいろんな運営形態のシェルターや施設があって、生活保護はあくまでも「利用者が自己負担する分」のみに適応されます→
子どもとお母さんには最初からタメ口なのに、お父さんが出てきた瞬間に敬語になる治療者に度々会う。大抵が男性の臨床家。 距離の近さ云々の前に、基本的な礼節について問題にしてほしいよ
大学だけでなく中学高校から同様の「アクティブラーニング」が増えてきています。実際に授業を見たり授業を受けた子どもたちから話を聞くと、 ・大人(教師)から良い評価を得られるような答えを探そうとする ・声の大きな=コミュ力のある生徒が評価される ということが起きているようです→ twitter.com/Kyohhei99/stat…
否定され貶められる体験が積み重なって「私は軽んじられて当然」と信じてしまうことすらある、その気持ちを汲みながら、本当はどうありたいのか、何がしんどくてここにいるのか、丁寧に聴く中で「歪み」に気づく。支配・被支配という構造に気づく。そしてやっと、逃げることを自分に許せるようになる
寛容でいられること・いたいと願えることの特権に、赦せること・赦したいと願えることの特権に、「怒ることをやめたい」と言える特権に、私たちはもっと自覚的であった方がいい。特に「支援」を生業とする私たちは。
私が政党や候補者を選ぶのに重視する柱のひとつはもちろん児童福祉政策。でもいくら子ども関係に「熱心」でも性的少数者に差別的であったり選択的夫婦別姓に反対していたりジェンダー格差や人種差別に無関心で生活困窮者支援に後ろ向きな政党や人は信頼できない。全て繋がっている。人権の問題
団体の体力的にこれ以上の事業拡大は難しいですし、男性からの暴力、性被害に遭った方、女性であるが故の差別や困窮に苦しんだ方に安心して暮らしていただけることが何より大切だからです。だからこそ、私は性的マイノリティへの差別に反対します。私たちの活動(シェアハウス)は彼らを→
若者の政治離れを防ぐには? 私たちが若者のための政治を行う政治家を選べばいい。若者が政治から離れてるんじゃない、政治が若者から離れてるんです。さらに言えば若者ではなく「貧しい人」から離れてる。分断は年代の差によって起きてるんじゃない→
片方がもう一方を支配し、貶め、否定し、搾取する。そこに暴力がなくても、たとえその暴言が子どもに向かっていなくても、非対称の歪んだ関係性が子どもに与える影響は計り知れない。夫婦は多くの子どもが最初に観察する「パートナー」のかたちだから
様々な抗議活動も草の根の市民活動も、瞬間的なインパクトよりも継続性が大切。そのために自分たちの生活と健康を傷つけずにどう続けていくかをそれぞれが模索してる。時に小さく、泥臭くあるのはそのため。その小ささをぬるいと感じたり泥臭さが不快だと言えるのは、無関係で安全な場所にいるから。
だからわざわざ言わなくていい。言うとしても「相手はこの言葉を望んでるな」という確証の持てる相手と場所に限った方がいい。で、そういう関係性や場所を築くために容姿や体型の話題は必要なかったりする
実際は分断ではなくて分断「のように見える何か」なのかもしれない。繋がっている。その繋がりが見えないことは、誰にとっても不幸でしかない。不幸でしかないはずなのに、見えない方が安心できる人たちがいる。だから切り離される。   どう繋げるか。インタビューに答えながらいつも考える
私たちはかつて子どもだった。でも今は違う。「自分がかつて未熟で無知な子どもだった」ことは、目の前の子どもを未熟で無知だとジャッジする根拠にはならない。性同意年齢引き上げには賛成だけど「自分がかつていかに未熟だったか」を語り今ここにいる子どもの主体性を否定する文脈には危うさを感じる
被害者でさえ「殴られてない叩かれてないのでこれはDVではない」と言ってしまうのが精神的DV。当然加害者もDVだなんてこれっぽっちも思ってない。だから「虚偽だ」となる。そして私は「虚偽DVを唆した悪者」になる。でも「いやいやそれはDVです!すぐ逃げて!」なんて「説得」することはめったにない
そもそも相談するってむちゃくちゃ難しい。どんなに困ってても、困ってるからこそ難しい。困りごとには恥のスティグマがある。それを資格と学歴のある立派(に見える)な人に打ち明けるなんて簡単にできない。相談しようと思っても直前で引き返したくなる。むしろドタキャンしたくなる心情が自然かと
戦地で子どもと女性が避難し、男性が現地に残ることについて。まず、子どもは優先して避難させ守らなければならない。そのことに誰も異論は無いと思う。ではその子どもを誰が守るのか。さらに、戦時下において女性が性暴力の被害に遭うリスクは男性より高い