それは子どもからの信頼を捨てる仕草です。それにその子が「死にたい(くらいしんどい)」理由は今・ここの現場、つまり学校や家庭にあるわけで、それは医療にかかったからって解決するわけじゃない。私たちにできることがもっとあるはず
「貧困の子どもたちのために子ども食堂増やしましょう」と同じくらい姑息。同じ政府がやってるんだからそうなるのは当然の帰結かもしれないけど。どうあっても当事者に直接届くお金の流れは作りたくないらしい
新型コロナウィルス感染症にかかり、自宅療養中のひとり親・ひとり暮らしの若者(未成年)のみなさまに、約5日分の食料品を玄関前にお届けいたします。月曜日には「たべまな」の手作りごはん、その他はインスタントやレトルトです。お届け可能地域は白河市内、ご本人と同居のお子さまが対象です→
SCもSSWも不登校減少を目的にしたのでは詰む。目指すのは子どものwell-beingであって、学校がそれを阻害するのなら(一時的にでも)学校から遠ざかり心理的安全と学習の権利をどう守るかが支援の軸になる。不登校減少を成果として求められなら、うちらお呼びでないわなぁ news.yahoo.co.jp/articles/5b840…
ちなみに女性の先輩や先生たちはみなちゃんと名前や謝辞を載せてくれたり助言に対して報酬をくれたし、男性の先生の中にもきちんと対応してくださる方もいます。しかし私という一例に限ったことではありますが、「タダでの協力」を当然のように要求するのはおしなべて男性だったのです。事実として。
対人援助職に「向いてる」人なんていないしむしろ「私は向いている」と信じてる人ほど危ういと思う。ただし「向いてない」のはどんな人かわりとはっきりしてるんじゃないかな。例えば「私は絶対に差別なんてしない」と言い切る人、世の中の動きや政治に関心がない人、感謝されたい人、
子どもが有名大学に入ったり特別な功績をあげると子ども本人よりも「〇〇大学に入れた親(ママが多い気がする)!」みたいに親が注目されるの、好きじゃないなぁ。まずその子の個性あってのことなのに、それがすっぽり消されてる。その記事読む大人(親)にも子どもにもポジティブな影響は無いと思う
企画側はもとより出演側も「男性だけである」ことに何ら疑問を持たなかったのかな。「どんなに実績を上げても椅子が空かない(椅子を占拠している人たちが降りない)限り座れない」という不均衡に意識が向かない男性たちが健康に生きるという(女性の)権利について語るって、かなりグロテスクだと思う twitter.com/jimin_koho/sta…
若い頃はそれを「親しさゆえ」と自分に言い聞かせ、「立派な先生に頼られている自分」に酔おうとすることで飲み込んできてしまったけれど、すごくすごく悔いてます。言葉だけの感謝もご馳走も要らん、名前を載せろ。今は、そしてこれからも、相手が誰であれそう要求する。
アルバイトが必要な高校生がいる。でもアルバイトを禁じてる学校がある。でもNPO等でのインターンやボランティアは推奨されてる。ならNPO等が有償のインターン・ボランティアとして高校生を雇用すればいい。と思ったのでうちは数年前から「スカラシップ」と称して高校生たちをスタッフとして雇用してる
数冊の本が彼女の無邪気な楽しみを奪った。でも奪ってよかった。本人も奪われてよかったと感じている。 それが多分、知るということ。
できるだけ保護件数を減らしたい行政も必死で対策してます。 要は「施設に入ってるから生活保護は必要ない」というのは間違いです→
整形したい 痩せたい そんな言葉が小中学生からも聴かれるようになった。切実に。「自分のなりたい姿になる」のは個人の選択であり自由。でもそのなりたい姿は「多くの人が美しいと認める顔」だったりあるいは「他の誰かの顔」だったり、他の誰かから侮蔑されないための体重やスタイルだったりする→
親の仕事って、親の許可なく行動することを許さないことではなくて、親の知らない場所に行ってもそこが安全か否かを判断できる力を育てる・自分にとって害になりそうな場から離れる力を育てることなんじゃないかな。大切なのは「自分が傷ついた経験や傷つきそうになった経験を秘密にしないで済む」関係
話を聴くって難しい。すごくすごく難しい。技能的な問題だけじゃない、ジャッジしたい欲求、「専門性」を評価されたい欲求、早く答えが欲しい欲求、いろんな欲が邪魔をする。欲は不安の裏返し。難しい。でも大切。だから踏ん張りたい。
「子どものこと」で相談に来るのはひとり親家庭に限らず大半が母親。その事実からだけでも家事育児負担の不均衡とか母親への社会的な期待や抑圧とか男女の賃金格差とか男性の相談のしにくさとか、様々なジェンダーギャップが透けて見える。子ども支援をするとジェンダー問題に無関心ではいられなくなる
乗り越えた人たちの努力や工夫は素晴らしいけれど、その乗り越えた人たちの物語に「ひとくくり」にされることで苦しい人が現にいるのでそのひとくくりをやめませんか?子どもに借金を背負わせるという制度によって苦難に陥る人たちが存在するわけだから制度そのもの是正しませんか?ということです
もちろん寄付は「よきこと」だけど片方の手でよきことをしてもう片方の手で誰かを搾取して貧困再生産続けるの卑怯だし、こども食堂は手軽に貧困問題取り組みアピールするための素材じゃないし、こども食堂にはいろんな必要性があるけどそもそも「貧困対策」になってるか(していいのか)って話だし、
支援の対象者に対してイライラしたり、言う通りにさせたくなったり、話を遮ってしまったり、叱責や反論をしたくなったり、そんなことが増えた時。それはあなたがダメなのではなく、多分疲れてます。必要なのは自分を責めることではなく休息です。休も
それはワリカンです。もちろん食費も自己負担。どうしてもお金ないって時は寄付金ベースの基金から立替えますが、それも底無しじゃない。なので手持ちの資金が無くすぐの就労が難しい場合は生活保護が第一の選択肢になります。で、その場合だって「満額(雑な言い方になりますが)」出るわけじゃない→
前から気になってたこと。病院や役所等で見かける同行支援中らしい支援職、ほとんどの人が首から名札下げてる。「○○児童相談所」とか「○○福祉事務所」とか「○○病院」とか。それって隣にいる人や子がどこでどんな支援受けてるか他己紹介してるようなもので、当事者のプライバシー垂れ流し状態だよ
叱ったり注意したりする前に「何があったの?」とひと言声をかけるだけで防げる傷つきや誤解がたくさんあると思うんだけどな。
ってことは、既に大抵の民間団体は口を酸っぱくして訴え続けてるんだよね(そのはず)。でもなかなか変わらない。なんちゃら事業だけが増えていく。だけどそもそも受諾できる団体(特に住居支援)が少ないからどうしても少数の団体に依存する形になってしまう。だから必要なのは事業ではなく制度。
もちろん中には利用者に不適切かつ不必要な自己負担を設定してその分を生活保護から…という団体もありました。今でもあるでしょう。それが忌むべき「貧困ビジネス」です。で、それについても申請時にガチで調査されます。もちろん自治体によっては調査に穴があり悪質団体が生き延びているようですが→
正義の反対は別の正義、なんて簡単に言える。でも、そうかな。問題は「正義」という道理すら通じなくなってしまったことじゃないかな。価値観の相違と「正義」云々は関係ない。正しさも正義も、それを受け入れられない人たちの手によって貶められてしまったのだと思う。