支援の現場で「家族の絆」なんて言葉が出てきたら、それは支援者の思考停止や無策、役割放棄のサインです。一国の首相の場合は、どうだろう。
コロナでは「向き合わず黙って食べるのが正しい」という逆のジャッジに振れた。それがまた逆に振り戻されようとしてる。いずれにせよ、子どもの声は聴かれてない いじめや嫌がらせを受けてる 集団がしんどい 人の目がつらいetc. そういう子たちは決して「少数派」ではないよ。ただ声が届かないだけで
様々な家族構成があり、親に手紙を書くのがしんどい子がいる。教員が期待する「良いことエピソード」を書けない、書こうとすると自分の中の何かが損なわれてしまう子がいる。その子たちはずっと存在してきた。そして我慢と忖度を強いられてきた。そろそろ大人側がアップデートしない?
みんな苦しくなるだけじゃないかな
こういう文書について知っておくことも生保申請のライフハック。「知ってる」人には確実に窓口の対応が変わります。ほんとはこんな「自助努力」なんて必要ないはずなんだけどね。
こども食堂運営者が「子どもの貧困問題に取り組んでいます」と自称し、それだけでなく「子どもの貧困」をダシに寄付を募り、またこども食堂にやってくる子たちへのスティグマを強化するような広告を、大手ニュースサイトに大々的に展開する。ちょっとこれ、許容できない
マイノリティ(数の問題じゃないよ)のしんどさって不当な扱いを受けることだけじゃない、この「良かれと思ってされた害のあること」を拒絶する時に生じる摩擦のストレスもある。多いにある
「これって性暴力(セクハラ)じゃないかな…?」という言動に苦しんでいる子どもたちが「でも『良い先生』だし」「そのつもりはないかもしれないし」と口を封じられ相談できなくなってしまうことを恐れます。その意味で非常に悪質な記事です #文春オンライン
人生何があるかわかりません。「シェルター入ったら生保要らない」と誤認されている方も、今後なにかのきっかけで住居がなくなり仕事もなくなるかもしれません。その時は躊躇なく支援を頼り、どこに住んでも生活保護という選択があることを覚えておいてほしいなぁと思います。
子どものしんどさは貧困ばかりじゃない、も事実。貧困の子はその他のしんどさを抱えやすい、も事実。そして外から見えづらい貧困がある、も事実。誰でも利用できるが大切。そして限りあるリソースをより必要とする人に優先して提供するのも大切。「子どものため」の事業を行う人たちは、
なんだか最近「許せない人を許せない」人が多くないかな? 不当な扱いを受け、尊厳を奪われ、傷つけられたらその相手を許す必要なんてない。怒りは自尊心を守るために大切な感情。そしてもし「許せる」時が来るのであれば、それは真っ当に怒って「許さない自分を許せた」その先にあるのだと思う。 twitter.com/marisakura/sta…
こども食堂やサードプレイス、または「子どもの貧困」対策に取り組む非営利団体向け企業助成金が増えているけど、その企業が自分とこの従業員をどんな条件で雇用してるか、非正規雇用の割合どのくらいか男女の賃金格差放置してないか長時間労働強いてないか等の諸々が気になるし、気にするようにしてる
加害的で差別的な言動(セクハラ/ルッキズム/家父長制/パワハラetc.)に苦しむ子どもたちは、加害そのものに加えてそれを見過ごす大人、自分たちを守らない大人、そして理解があるふうな大人からの「辛いの分かるけど適応しないと生きてけないから上手にやり過ごそうね」的なメッセージに苦しんでます
なんにもしたくない まだわからない これから探す 猫とのんびり暮らす 推しを愛し続けたい 平和に過ごしたい 好きなことだけしてたい あの国に住みたい   もし「将来の夢」を書かせる・言わせるなら、そういう答えも歓迎してほしい
どうも暴力的で支配的な人が(特に子どもやパートナーに対して)愛だの絆だの言いがちなのは、それが測定も評価もできないからなんだろうなぁ。あると言えばある、にできる。評価を許さない支配と抑圧。どうとでも言える愛だの絆だのより観察可能な行動の方が信頼できるし大切。愛より行動、絆より安心
子育てに理念なんて持ってないし自信なんてあった試しがないけれど、娘氏が私と違うものが好きで、違う考えに惹かれて、想像もしなかった夢を持ってて、私の言葉に「そうは思わない」と返して、私のしたことに「嫌だ」と言って、ちゃんと不機嫌になってくれると、間違ってなかったんだなぁって思える
でも彼らは「99回も言ってきたなんて嘘だ!聞いてない!不意打ちだ!」と言う。うん、だって聞こえていないんですもの。聞こえていないなら「無い」ことにされる。どこまでも平行線
個人的には、暗くなってからも子どもが公園で安心して遊べて、それを「地域で見守る」ができたらいいなぁって思う(もちろん深夜はあかんけど)。公園ってそういう場所であってほしい。公園が難しいなら、他にそういう場所があったらいい。
「ごめんなさいが言える人に育ってほしい」って願う親は多いけど、ちゃんとごめんなさいできる大人って少ないと思う。特に、子どもに対して。
虐待や経済搾取を受けて諸事情で新制度が利用できない子たちが使える奨学金等を調べてるけど、どこも将来の夢や大学での目標をかなりのボリュームで具体的に書かなきゃいけないのなかなかしんどい。安全が守られ「やりたい」が実現できた、そんな機会が乏しいと「未来」について書くのは難しいしキツい
「子どもの貧困対策」は基金頼み、かつての内閣総理大臣が子どもに向かって「こども食堂に行ってみよう」などと呼びかけ「助けを求めれば支えてくれる人がいるよ」と自助を求め「未来を決めるのはあなた自身」と突き放す、そんな「貧困対策」がなかなかアップデートされない責任の一端は→
対象者さんはには感謝とかやりがいとか、そんなご褒美を私にくれてやる義務はないわけで。だから私も求めない。つまり対人援助者はしっかり「仕事以外」で生きててよかった!って経験をしてないといけないし、ちゃんと充分な給与を受け取らなきゃいけないし、自分と家族の健康を大切にしなきゃいけない
こども食堂ってそういう「支援サービス」なのかな?その役割を引き受けてしまっていいのかな?そうすることで本来担うべき場所の責任を免除してしまっていないかな?というところから、そろそろ吟味した方が良いと思います。
誰からも怒鳴られない、威圧されない、誰かからの評価を気にして怯えない、そんな環境が整って10年ちょいだけど、気づいたら「失敗」が少なくなってる。周囲や自分を傷つけ裏切るような選択をしなくなった。失敗するから怒鳴られると思ってたけど、怒鳴られ威圧されジャッジされるから失敗してたのかも
そんないらんことするよかメンタルヘルスと人権と福祉についての学習を義務教育に導入した方がずーーーーーーっと効果的だと思うよ。 twitter.com/YahooNewsTopic…