成田空港が閑散としているとは聞いていたが、京成線の改札を出て即、入口でこんなアドベンチャーゲームっぽいヤバみを漂わせているとは想定外だった。
もう「Z」印の国際的な自主規制&タブー化は確実と思われますが、それって、寺院マークの裏返しのアレに比べても影響大きすぎですね。
あと、ある人気の情報番組で 「戦争は悪だが、女性兵士の戦いは尊重に値する」みたいなニュアンスの主張が行われていたのに、とてつもない違和感を覚えた。いったい何をヨイショしようとしているのだろう?
ウクライナ侵攻における戦争犯罪の問題について、過去事例との安直な類比をベースとした過度の断罪や煽りはNGだと思う。
ウクライナ侵攻の戦争被害の報道については「あれはプロパガンダで」云々という話も目立つけど、例えばストリートビューで「ちょっと前」を確認できるような、町がメチャクチャになった状況とかはたぶん本当なわけで、それだけでもう充分すぎる気がします。
ロシアからのプラモデル輸入も「開戦前の発送分のみ販売、次回入荷未定」となった。 ロシアのトップメーカー「ズベズダ社」の最新製品で、モデラーから戦車以上に待望されながらいきなり超品薄になったのが、「60年間同じ顔」で世界に根強いファンを持つUAZバンだったりするのが、なんか切ない。
これは私見ですが、内的な表現欲の有無という以上に 「表現者になれなかったけどその環境から身を引くこともできず、中途半端な状態で、そもそもなりたかった対象に延々と向き合わせられる」 的な状態から強い呪いが生じてくるのかなと。 きちっとした返答になっていない気もして申し訳ないですが。 twitter.com/toygunslinger/…
いろいろなものが可視化されちゃったから、 「自分の承認欲求が満たされていない」という状況についての、ごまかしや抑制が利きにくくなっている面もあるような気がします。
「表現者になりきれなかった者たちの呪いがネットには満ちている」という、知人の言葉のインパクトが忘れられない。
そういえば最近の『ロシア・トゥデイ』は、昔に比べてつまらなくなっていた。 実質プロパガンダにせよ、下記のように数年前のコンテンツにはそれなりに見応えがあった。 単なる体制忠実度を基準に人材評価や組織運営を行い続けると次第にこうなるのか、という意味で何気に印象深い。 twitter.com/marei_de_pon/s…
「チェルノブイリに侵攻したロシア兵がヤバい場所で塹壕を掘ったりして急性放射線障害に!」という話、真偽が問われている(そして真相はなかなか判明しないであろう)が、とにかく 「偏見的な戯画じみた、雑なロシア軍」 イメージそのまますぎるのが、いろいろと考えさせられる。
【卒業式で「三流大学」と発言、姫路市長「エール送るつもりだった」】yomiuri.co.jp/national/20220… 記事をろくろく読まずに決め付けコメントしているっぽい人の多さに驚く。 いや、読んだ上での読解力の問題かもしれず、であれば問題はより深刻だ。
イエスマン体制が行き詰まったときに残るのが「組織の全体ポテンシャルをまるで発揮できなかったみっともなさ」だったりする点もまた実にアレで、だからこそ「押してはいけないボタン」の存在が気になったりするわけです。
今回の戦争であらためて明確化したことの一つに「側近をイエスマンで固めることのリスク」があるでしょう。 とはいえその教訓を得るのに、これほどの人命や文化・経済的な損失が伴わなくていいのに。
なぜかといえば「これなら仕方ない」感には宿命的にブレが存在するから。 だからこそ法律というものが出来た、という経緯を思い出す必要があるような。
この事件は女性が絡むことで妙に複雑化し、「これなら暴力も仕方ない」という印象による正当化がけっこう共感を得ている印象。 でも「これなら仕方ない」感ほど危ういものはないのよ。
ウィル・スミスの殴打事件は、 「正義」と「暴力」の両立可否に女性のシンボル性が絡む、という面で、最近の揉めごと系のエッセンスが凝縮されている感があるのもまた凄い気がします。
ここでウクライナのプラモメーカー(しかも本社はキエフ。今はどうなのか不明だが)から現用の戦闘車両の新製品予告が飛び出す状況には、いろいろ深く考えさせられるものがある。 元々はロシア市場もけっこうなお得意様だったそうなだけに。 twitter.com/MiniArt_Models…
すごい費用と手間をかけて現代ロシア装備をバッチリ決めていたサバゲーマーの方(知人のチームメンバー)が、 「もうこれ着てフィールドに出られないッス…」 状態だそうで、もちろん一般世間的には「それどこじゃねーだろお前!」な話ですけど、「そういうのもあるのか」的に微妙に印象深かったです。
『ワイド!スクランブル』では時間が足りず満足に述べられなかったが、アカデミー賞だろうが何だろうが、 『ドライブ・マイ・カー』は本当に素晴らしい映画。世界の裏側の深い構造が部分的に開示される傍らで、主人公が自らの人生を再構築してゆく。村上春樹の原作から大きく逸脱しているのに、極めて
何らかの極論陣営に加担したり、情報戦ぽい状況に進んで食い込むことを「社会参加」だと思いこんでいるっぽい人が目立つので、改めて 「重要なのは情報よりも知性だ」 と感じてしまう今日このごろです。
いわゆる反戦平和的な言説には 「戦争を徹底的に忌避すれば、戦争が遠ざかってくれる」 という呪術めいた文脈を感じることが多い。それを非現実的だと嘲るのは簡単だが、逆に、もしすごい呪術師が総出で取り組んでみてある程度の効果が出たりしたら凄いな、と思わぬでもない。
ロシア関係情報も、なんだかんだで旧来的な逆張りディベート議論のネタとして変な文脈から消費される度合が強くなってきた感があり、そういうのに触れると一種の疲労感が蓄積するのであった。
「ロシア地上軍全力投入」っぽい話が報じられる割に、赤の広場でのお披露目で「え?これなのか?」と世界をある意味沸かせた最新戦車T-14アルマータの姿が全然見られないのは何故か? という議論に巻き込まれる。 「やられた姿を晒すわけにはいかない」から温存なのか、稼働率が低いのか、あるいは…?
「何といってもウチには核兵器がある!」 「おおー!」 みたいなやりとりを首脳部の内輪で繰り返していると、いずれ、外聞を気にせず「使わないと引っ込みがつかない」状況になるのではないかと心配です。