初版道(@signbonbon)さんの人気ツイート(リツイート順)

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芥川龍之介の亡き後、菊池寛が文壇で最も信頼していたのは横光利一です。横光の通夜で人目を避けて焼香を済ませた菊池は、物陰に身を隠し、眼鏡を外して涙をぬぐい、そそくさと立ち去りました。そして葬儀で弔辞を捧げた僅か2か月後に亡くなっています。それはまさに跡を追うかのような死でした。
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太宰治は「いちばん高級な読書の仕方」を「鷗外でもジツドでも尾崎一雄でも、素直に読んで、さうして分相応にたのしみ、読み終へたら涼しげに古本屋へ持つて行き、こんどは涙香の死美人と交換して来て、また、心ときめかせて読みふける」と語っています。「涼しげに古本屋へ持つて行き」がいいですね。
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昔も今も神保町で一番怖い古本屋において、昭和の終わりに耳にした、若い客の最も勇気ある質問。「6時過ぎたら値引きってありますか?」店主の返事は「6時過ぎたら5割増し」でした。常套句の「お前に売る本はない!」に比べれば、穏やかな応対だったと思います。
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泉鏡花によれば、小説を初めて褒めてくれたのは樋口一葉で、作品は「夜行巡査」でした。人づてに「近頃にない大変面白いと思つて読みましたつて、お夏さんが賞めてましたよ」と言われ、「半分夢中で聞いた位、其時、嬉しかつたの何んの」と回想しています。「何んの」に実感がこもっていて可愛いです。
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芥川龍之介の自筆原稿が所在不明の主な作品 「羅生門」「芋粥」「手巾」「枯野抄」「蜜柑」「舞踏会」「南京の基督」「藪の中」「トロッコ」「六の宮の姫君」「点鬼簿」「蜃気楼」 「開化の殺人」の原稿は、有島武郎と情死した波多野秋子の遺品から発見。まだ人知れず眠っている原稿は必ずあります。
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中原中也『山羊の歌』の装丁者高村光太郎はどの部分に携わったのか。題字だけという説もありますが、函を見比べれば、同じ文圃堂の光太郎装『宮澤賢治全集』のように、という中也の懇請に応えたと思えるのです。現存する『山羊の歌』(確実に百冊以上)の多くは、今もこの堅牢な函に守られています。
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尾崎紅葉の葬儀次第(明治36年11月2日)です。この紙は何枚現存するのでしょうか。位牌を持つのは泉鏡花。当然ですね。
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太宰治の「ポーズ」を批判した志賀直哉に対して、外村繁は太宰の死の直後、「弱い性格のものには弱い生き方があり、宿命があるのだ」「彼の生き方は決してポーズではない。あれでなくては生きられなかったのだ」「太宰君は弱ければ弱い程純粋だったのだ」と主張しました。まさにその通りだと思います。
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今日は泉鏡花の命日です。戒名は佐藤春夫が「妙文院水月鏡花居士」と「幻妙院鏡花日彩居士」の2案を作成。徳田秋聲が前者を「聊か通俗」と評し、後者になりかけたものの、日蓮宗では女性の戒名に用いる「妙」を男性には使わないと指摘され、「幽幻院鏡花日彩居士」に。最も鏡花に相応しい戒名ですね。
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講演前にくつろぐ芥川龍之介と久米正雄(大正13年、早稻田第一高等学院)。芥川は「プロレタリア文芸」について講演し、その将来に期待を寄せました。彼に小林多喜二の『蟹工船』を読んでもらいたかったと思います。
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今日は森鷗外の命日、鷗外忌です。芥川龍之介は夏目漱石を敬慕し、太宰治は芥川を敬愛していましたが、二人とも鷗外に対する尊敬の念はそれに劣らないものでした。他人への評価が厳しい永井荷風・日夏耿之介も鷗外信奉者。没後100年という節目の年に、この大文豪にもっと光が当たることを望みます。
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夢野久作『ドグラ・マグラ』(昭和10年、松柏館)の初版本です。この「幻魔怪奇探偵小説」を初めて読んだのは高校生の時。何度読み返しても内容を理解したとは言い難く、それゆえ常に新鮮さを失わない不思議な作品だと思います。初版函付の美本は近年あまり見なくなりました。
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一生の中で真の友と呼べる人はそう多くないでしょう。そんな人に死なれると本当に辛いものがあります。「人が百人の友の中から、その一人を失ふことは苦痛がすくない。けれども僅か二人、もしくは三人の友の中から、その一人を失ふことは耐えがたいかな。」芥川龍之介の死を悼む萩原朔太郎の言葉です。
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三島由紀夫は谷崎潤一郎を「内心は王者をも挫ぐ気位を持つてゐたらうが、終生、下町風の腰の低さを持つてゐた人」と評し、三島が席に忘れたコートを、追いかけて渡してくれたことを回想。「文士の世界では、どんなヒヨッコでも一応、表向きは一国一城の主として扱へ」というモラルを教わったそうです。
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佐藤春夫の葬儀における弔辞では、親友の堀口大学と日本ペンクラブ会長の川端康成が有名ですが、個人的には、あまり知られていない檀一雄の弔辞に最も心を動かされます。その結びをご紹介しましょう。「先生。さようなら、何れ私達がまた悠久の無に帰する迄、先生。さようなら 不徳の門弟 檀一雄」
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講演会場での芥川龍之介(大正12年)。演題は「プロレタリア文芸」でした。両手が格好いいですね。
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今日は菊池寛の誕生日です。自宅前で息子とこの写真を撮ったのが、正月なのかは存じません。ただ龍の字の凧が天高く舞い上がった時、天国にいる親友を思い出したのは間違いないと信じます。
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今日は谷崎潤一郎が千代夫人と離婚し、佐藤春夫が彼女と結婚することを3人の連名で発表した日です。世に「細君譲渡事件」と称され当時の新聞にも「友人春夫氏に與ふ」とありますが、物ではないのだから千代夫人の尊厳を傷つける呼び方はいかがなものかと。春夫に愛された千代は幸せだったと思います。
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国木田独歩が島崎藤村に付けたあだ名はイソギンチャク。どうしてかは知りません。本人が聞いたら嬉しくないと思いますが、悪気はなかったようです。ちなみに、柳田国男によれば「国木田君は好く言へば無造作、悪く言へば無茶な男だつた」とのこと。「無造作」は決して褒め言葉ではないのですが・・・。
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89年前の今日、小林多喜二は特別高等警察の拷問により殺されました。遺体の様子はあまりにもむごたらしく、当時の証言、特に右手の人差し指が反対側に付くくらい骨折していたという記述は、読むたびに涙を抑えるのに苦労します。作家の右手ですから。『蟹工船』を生んだ右手ですから。
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墓の名前を書いた人(後編) 太宰治→本人、檀一雄→草野心平、坪内逍遙→市島春城、土井晩翠→本人、徳冨蘆花→徳冨蘇峰、中野重治→原泉(妻)、中原中也→本人、夏目漱石→菅虎雄、二葉亭四迷→池辺三山、正岡子規→陸羯南、正宗白鳥→本人、三好達治→本人、森鷗外→中村不折、横光利一→川端康成
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佐藤春夫は、絶縁された永井荷風の霊前にマロニエの枝と一緒に弔詞を奉げました。「奉る小園の花一枝 み霊よ見そなはせ まろにえ 巴里の青嵐に 黒き髪なびけけん 師が在りし日を われら偲びまつれバ」しかし、この敬慕の念はすぐ嫌悪に変わります。春夫は荷風に恋し、そして破れたのです。
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太宰治の次女の作家津島佑子さんは、昔お会いした時「父は文学史の中の人です」と語り、好きな作品は『黄金風景』と即答されました。今日、長女の園子さんも旅立たれ、今ごろ太宰は妻と子ども3人と72年ぶりに揃って、海に石の投げっこをして笑い興じているかもしれませんね。『黄金風景』のように。
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太宰治は女性にモテるイメージが強いけれど、意外にもそうでもなくて、飲み屋でやけになって「僕は太宰治という小説家だ」などと女給に威張ったことも。もっとも相手はそんな名前を知るはずもなく、一緒に行った人たちは抱腹絶倒したとのことです。今だったら間違いなくモテモテだったのに残念でした。
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猫好きの谷崎潤一郎は「犬はジヤレつく以外に愛の表現を知らない。無技巧で単純です」と書き、犬好きの志賀直哉は猫について、「うるさくて、きたならしくて、僕は猫はキライなんだ」と語っています。身贔屓の強さでも、両文豪は一歩も引けを取らないようです。