初版道(@signbonbon)さんの人気ツイート(リツイート順)

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夏目漱石が芥川龍之介に送った名言「むやみに焦ってはいけません。ただ牛のように図々しく進んでいくのが大事です」の書かれた手紙の映像も登場。芥川は師の言葉に従うことができませんでした。 芥川龍之介生誕130年 旅の軌跡たどる企画展 甲府|NHK 首都圏のニュース www3.nhk.or.jp/shutoken-news/…
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泉鏡花の誕生日を祝し、特に人気の高い初版極美完本をアップします。処女単行本『活人形』、『高野聖』(カバー)、『風流線』正続(袋)、『婦系図』前後編(カバー)、『日本橋』(函)です。やはり鏡花本の美しさは格別ですね。
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「若いころの室生君はおもしろかったよ、浅草の草津という料亭に僕を招いてくれた時のことだが、その席に侍った太っちょのロシア女の肌を見て、『君、君、君の肌は昆虫の羽のようだね、僕に触らせてくれませんか』などと大袈裟な物の言い方をするんだよ。」OKが出たかは存じません。「僕」は白秋です。
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山の上ホテル内コーヒーパーラー「ヒルトップ」の「ピーチ・メルバ」です。近代フランス料理の父エスコフィエが伝説のオペラ歌手メルバに供したデザートで、素材は桃・バニラアイス・生クリーム・アーモンドスライス・ラズベリー(ソースも)。開業当時からホテルの名物でした。奇跡の味と言えましょう。
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横光利一『蠅』の原稿を受け取った菊池寛は「君の蠅は、のせる。君のだけが小説だ」と書き送り、『文芸春秋』大正12年5月号に掲載され出世作となりました。「君のだけが小説だ」、新人作家にとってこれ以上の誉め言葉があるでしょうか。横光はこの手紙を読んだ時の感激を終生忘れなかったと思います。
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佐藤春夫が編集し、物故作家59人の写真と略伝が載った『文芸懇話会』昭和12年5月号です。太宰治は、近代文学関係で唯一この雑誌を三鷹時代にずっと書斎に置き、特別に大切に保存していました(美知子夫人の証言)。きっと太宰も、この可愛いポーズの芥川龍之介の写真を何度も眺めたのでしょうね。
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吉行淳之介が川端康成に、銀座の酒場も近頃高くなったので滅多に行きませんと話したら、「じゃ勘定払わなきゃあいいじゃありませんか」と。吉行は「高僧の一喝にあったような気がした」そうですが、さすがに川端ともなると人の受止め方が違うもので、一般人が言ったら単なる無銭飲食の勧めであります。
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明治大正時代の作家に関心がある方へ『明治大正文豪研究』(昭和11年、新潮社)をお奨めします。『新潮』掲載の「研究座談会」をまとめた本で、同時代の評価がよくわかります。発言が面白いのは断然徳田秋声。特に紅葉・漱石・芥川に対するコメントは、賛否両論あるでしょうが実に興味深いです。
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芥川龍之介の自殺が当時どれほど大きな衝撃を周囲に与えたのか、片山広子の言葉が端的に伝えています。「芥川さんはご自分だけでなく、ご自分の死によってまわりの人たちまで一緒に死なしておしまいになりました。」芥川が「越し人」と呼んだ広子も、「まわりの人たち」の一人だったのかもしれません。
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太宰ファンの方は是非どうぞ。 太宰治が親友に贈った友情の証し 親友を描いた肖像画や書簡見つかる 三鷹市ギャラリーで初公開yomiuri.co.jp/local/tokyo23/…
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佐藤春夫によれば、泉鏡花は作品中で「紅葉」(もみじ)という文字を避けて「霜葉朱葉その他の文字」をわざわざ使ったそうです。「紅葉」が一度も出てこないかは知りませんが、確かに「折から菊、朱葉の長廊下を」(『妖魔の辻占』)など用例はたくさんあります。鏡花を弟子に持った尾崎紅葉は幸せですね。
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菊池寛が最初の『芥川龍之介全集』のために書いた推薦文。有名な弔辞に比べ知る人は少ないと思いますが、こちらも名文です。「彼の創作集は、その形式に於て、彼の芸術の延長だつた。」百年の時を経ても芥川の初版本が光り輝き、それを探す人が絶えない理由の一端が、ここにあるのかもしれません。
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菊池寛は芥川龍之介について「自分は彼の将来に就いては可成安心してゐる。芸術家も芸術家的壮心がなくなると駄目だが、芥川などは四十になつても五十になつても、かうした心持を失はないだらうと思ふ」と書いています。大正9年のことでした。それから7年後の彼の運命を知る者は、ただ俯くばかりです。
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高村光太郎が戦後、花巻郊外に住んでいた時の本棚の一部です。宮沢賢治の本があるのは驚きませんが、ここに移った後で刊行された『中原中也詩集』(創元社)も、一緒に並んでいることに感動します。中也は『春と修羅』を早くから高く評価していたし、もちろん光太郎は『山羊の歌』の装丁者ですから。
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前橋文学館「ふだん着の詩集、よそゆきの詩集-萩原朔太郎著作展」(9月17日~12月11日)に全面協力します。生前の単著(珍しい異装版を含む)をほぼ網羅した空前の企画展。関連イベント「『月に吠える』初版無削除版を手にとって読んでみよう!」は一生に一度のチャンスかもしれません。是非どうぞ。
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芥川龍之介夫人の文と佐藤春夫・川端康成。「私たちの結婚生活は、わずか十年の短いものでしたが、その間私は、芥川を全く信頼してすごすことが出来ました。その信頼の念が、芥川の亡きのちの月日を生きる私の支えになったのです。」芥川没後、41年を生きた夫人の言葉です。
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谷崎潤一郎は芥川龍之介の依頼により、『新小説』臨時増刊「天才泉鏡花」に「二月堂の夕」を寄稿。芥川によれば、鏡花は自分から谷崎に頼みづらかったそうです。それほど親密ではなかったし、自分の特集号だったこともあるのでしょう。後に鏡花は谷崎の娘の媒酌人を務め、借りを返した形になりました。
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昭和2年7月27日、芥川龍之介を荼毘に付す火葬炉の鉄扉の札に、最初は「芥川龍之助」と書いてありました。それを谷口喜作(芥川が好んだ菓子店うさぎや主人)が「仏が気にしますから字を改めます」といったようなこと言って、「龍之介」に直したそうです。きっと芥川も安心して天国に行ったことでしょう。
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中原中也は若い人に人気が高い一方で、大人になるまで読んだことがない人には敬遠されることも。しかし、大人が鑑賞しても素晴らしい詩ばかりです。信じられない方に小林秀雄の『山羊の歌』推薦文を贈ります。「嘘だと思つたら詩集を買つて読んでごらん。彼が当代稀有の詩人である事がわかるだらう。」
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文系の「なぜ数学を勉強するの?」への模範回答。「代数や幾何の勉強が、学校を卒業してしまへば、もう何の役にも立たないものだと思つている人もあるやうだが、大間違ひだ。(中略)日常の生活に直接役に立たないやうな勉強こそ、将来、君たちの人格を完成させるのだ」太宰治『正義と微笑』の一節です。
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谷崎潤一郎の命日にあたり、彼の言葉をいくつか紹介しましょう。谷崎の心の奥底が垣間見られる気がします。 「たとへ神に見放されても私は私自身を信じる」 「我といふ 人の心は たゞひとり われより外に 知る人はなし」 「僕は親子兄弟と云ふ血縁の関係にある者に対しても打ち解ける事が出来ない」
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太宰治の遺体の第一発見者について、間違った情報がツイッター上で散見されますが、正しい発見者は通行人の大貫森一(35歳の公務員)という人物です。高校生の時に、昭和23年当時の雑誌に記された彼の家を訪ねたものの、会うことはできませんでした。今ならばメディアの取材が殺到していたでしょうね。
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芥川龍之介は「僕は若い時は手当り次第本を読んだもんです。小説と云わず、戯曲と云わず、詩歌と云わず、其他の学問の本と云わず、何でも滅茶苦茶に読んだんです」と語っています。多読したからといって、誰もが芥川になれないのは当然ですが、多読しなければ、芥川は芥川でなかったかもしれません。
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芥川龍之介は「創作を書き出す前は、甚だ愉快ではない。便秘してゐる様な不快さである」と語っています。お上品ではありませんが、これほどわかりやすい譬えもないでしょうね。ちなみに一年では冬から春にかけての季節、一日では午前が最も創作気分に合っているそうです。
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坂口安吾から江戸川乱歩宛の『青鬼の褌を洗ふ女』献呈署名入り初版本です。発行は乱歩が『不連続殺人事件』を絶賛する前で、署名した時期は不明。旧乱歩邸の土蔵には旧蔵書の大半が残り、安吾の本も複数ありますが、署名本はないようです。外部に流出した乱歩宛署名本は3冊しか見たことがありません。