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志賀直哉は昭和8年の日記に「小林多喜二二月二十日(余の誕生日)に捕へられ死す、警官に殺されたるらし、実に不愉快、一度きり会はぬが自分は小林よりよき印象をうけ好きなり」と。ちなみに志賀宛の『蟹工船』は日本近代文学館蔵。改訂版しか手許にない多喜二は、古本屋で初版本を買って寄贈しました。
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太宰・安吾・織田作は、銀座の「ルパン」で大佛次郎の連れとトラブルになり「表に出ろ」という話に。安吾は「おう、出ようじゃないか」、太宰は「暴力はだめだよ」と。織田作だけは知らん顔して同伴者のネクタイを褒めていました。ちなみに揉め事の原因は「小股の切れ上がった女の話」だったそうです。
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夏目漱石と森鷗外、この2大文豪に焦点を絞った文学展は、不思議なことにほとんど開催されたことがありませんでした。しかし今秋、大きな規模で実現することになり、全面的に協力いたします。詳細は近々発表。どうぞお楽しみに。
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今日は佐藤春夫の命日で、かつ太宰治の長兄津島文治が亡くなった日です。文治は死の直前に、太宰が迷惑をかけた春夫らに今でも頭が上がらぬと語っています。しかし身内ながら、誰よりも迷惑をかけられたのは文治でした。ちなみに彼が一番好きだった小説家は谷崎潤一郎。ここでも春夫と縁がありますね。
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草野心平語録
①「若い文学の友よ。どうか白秋を読んでくれ。その厖大さに遠慮なく驚いてくれ。」
②「現在の日本詩壇に天才がゐるとしたなら、私はその名誉ある「天才」は宮沢賢治だと言ひたい。」
➂「中原よ。地球は冬で寒くて暗い。ぢや。さやうなら。」
心平も間違いなく天才詩人だと思います。
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菊池寛は芥川龍之介の作品の愛読者を自認し、「志賀君と谷崎潤一郎君と君のものと丈は、万難を排して読んで居る。読めば必ず報いられるからだ」と語っています。菊池が芥川を愛読したことは当然ですが、「万難を排して」志賀と谷崎を読んだことは驚きを禁じ得ません。さすがは小説の神様と大谷崎です。
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夏目漱石が "Ⅰ love you."を「月が綺麗ですね。」と訳した根拠となる資料は未発見ですが、松山中学の教師時代に「睾丸」の英語を生徒に聞かれ、即答したことは教え子が証言しています。ちなみに、漱石は学生時代に野球をやってボールを取り損ね、睾丸に当てて頻りに「痛い、痛い!」と叫んだそうです。
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太宰治が芥川賞候補となったのは1回だけ(第1回)です。佐藤春夫との応酬が有名なので、第3回も候補だったと誤解している方が結構いますが、予選候補にすら入っていません。それにしても、72年前には太宰の遺体がまだ発見されていなかった今日、お孫さんが芥川賞候補と発表されたことに宿命を感じます。
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新元号の出典が「万葉集」だったので、天国の太宰治も喜んでいるでしょう。彼のペンネームの由来については諸説入り乱れているけれど、本人は妻美知子と女優関千恵子に「万葉集」と明言していますから。ちなみに、金子みすゞの「みすゞ」は「万葉集」の枕詞(の誤読)に由来するそうです。
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今日は正岡子規の命日です。遠くイギリスで訃報に接した夏目漱石は、「倫敦にて子規の訃を聞きて」と題し、5句を高浜虚子に書き送りました。特に「手向くべき線香もなくて暮の秋」は秀句です。漱石は『吾輩ハ猫デアル』中編の序文で親友を追悼。誰よりも彼に『猫』を読んでもらいたかったのでしょう。
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三島由紀夫は「何がきらひと云つて、私は酒席で乱れる人間ほどきらひなものはない」と書いています。三島が中原中也と酒を飲んだら、間違いなく大嫌いになっていたでしょう。ちなみに酒席で中也に絡まれ、三島にもその文学が嫌いだと言われた気の毒な作家は太宰治。それでも太宰は酒が好きでした。
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夏目漱石の全集未掲載の文章を発見しました。内容も非常に興味深いです。「日本の古本屋」で近代文学専門店ではない古本屋から購入。ネットは誰もが公平に資料を入手できるチャンスがあります。
漱石が語る文学観 作家は「如何に世の中を解釈するか」:朝日新聞デジタル asahi.com/articles/ASM5Y…
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北原白秋は「啄木くらゐ嘘をつく人もなかつた。然し、その嘘も彼の天才児らしい誇大的な精気から多くは生まれて来た」と。与謝野晶子も「石川さんの嘘をきいてゐるとまるで春風に吹かれてるやう」と。嘘をこれだけ評価された人が他にいるでしょうか。しかも相手は、あの白秋と晶子。さすがは啄木です。
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議論(口論)の最中にうまい言葉が出て来なくて、後で悔しい思いをされたことはないでしょうか?でもそれは頭の良し悪しとは関係ありません。「人と議論した後ではいつでもさう思ふんだ。なぜあの時あゝ言はなかつたんだらうと。いろんないい言葉が後になつて出てくるんだ」かの芥川龍之介の言葉です。
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中原中也の詩『サーカス』の「茶色い戦争」はなぜ「茶色」なのか。音楽評論家の吉田秀和は、「セピア色」ではなく「中原の頭のなかにあったのは中国の大地や砂塵でした。本人から聞いたから間違いない」と(小池民男『時の墓碑銘』)。ちなみに中也は、生後半年で父親(軍医)の赴任地中国に行っています。
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