初版道(@signbonbon)さんの人気ツイート(古い順)

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菊池寛は「漱石全集は文学に志す人、文学を愛読する人は一度は読んで置くべきだ」とした上で、「漱石、白鳥、秋声の作を読まずに月々出る雑誌の創作欄ばかり読んでゐるやうな人は結局つまらぬ文学青年でしかあり得ない」と断じています。漱石と並べて白鳥、秋声の名前を挙げるところが興味深いですね。
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芥川龍之介は知りあったばかりの堀辰雄に「そのままずんずんお進みなさい」と励ましています(大正12年11月18日付書簡)。夏目漱石が「鼻」を激賞した書簡で「頓着しないでずんずん御進みなさい」と激励してから7年9か月。芥川は亡き師の言葉を片時も忘れたことはなかったのでしょう。
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永井荷風から谷崎潤一郎宛書簡(昭和19年3月7日)。死を意識した荷風は、谷崎に全集制作について色々と託し、「小生著書既刊本蒐集者」として4人の名前を挙げています。荷風の住む偏奇館は、翌年3月10日の東京大空襲で焼失。荷風が書いて谷崎が読んだ手紙を手にした感動は、言葉にするのが難しいです。
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「初版本、初版本」と騒いで(?)いるのは、初版本に関心を抱く人が激減し、絶滅危惧種だからです。読書は文庫本でも電子書籍でもできるし、安価で手軽に読めることは非常に重要でしょう。しかし作者が心血を注いだ作品を本として初めて世に送り出した初版本も、後世に残るべき大切なものだと思います。
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室生犀星は装丁に深い関心を抱いた作家で、「他人の本はあまり見ませんが芥川君・佐藤君の書物には注意深い周到さが検印の朱肉にまでその跡をみせてゐるのにいつも感心してゐるのです」と書いています。朱肉までチェックしているのは流石ですが、芥川と春夫が本当にそこまで拘ったかはよく分りません。
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永井荷風は59年前の今日、この世を去りました。発見されたのが朝だったから、各新聞は夕刊で大きく報じています。画像は珍しい地方紙の記事。これらを文学アルバムや展覧会図録で見ることは、ほとんどありません。発見者の名前の記述は、とみ・トヨ・とよ・手伝いのばあさん、とそれぞれです。
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泉鏡花に心酔していた中島敦が「今時の女学生諸君の中に、鏡花の作品なぞを読んでいる人は殆んどないであろうと思われる」と書いたのは昭和8年。しかし85年後の今日でも、難しい鏡花の文章を読もうと努力している女子学生(もちろん男子学生も)が数多く存在することを中島に教えてあげたいと思います。
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葉巻を手にする芥川龍之介(大正10年)。タバコを持つ写真は沢山ありますが、葉巻はほとんど見ません。この写真自体、初めてご覧になる方が多いのではないでしょうか。まこと眉目秀麗とは、芥川のためにあるような言葉ですね。
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近年よく耳にするのが作家の「モンスター遺族」の存在です。身内の作家を過剰に美化し、正当な批評にもクレームをつけ、研究者や出版社などが敬遠。結果として展覧会が見送られ、教科書に採録されず、新刊書店から消え、新しい読者が少なくなってしまうのに・・。最大の被害者は作家本人だと思います。
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今日は萩原朔太郎の命日です。昭和17年当時、北原白秋は病床にあり、名札を付けた花籠が朔太郎の祭壇横に置かれました。そして彼もまた同年11月に死去。しかし翌年の『萩原朔太郎全集』監修者には「故北原白秋」の名が。室生犀星が白秋の生前に依頼したものでした。泉下の朔太郎も喜んだことでしょう。
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今日は武者小路実篤の誕生日です。人道主義・理想主義に基づき人間愛を重視した白樺派の文学は、芥川龍之介をして「我々は大抵、武者小路氏が文壇の天窓を開け放つて、爽な空気を入れた事を愉快に感じてゐるものだつた」と言わしめました。白樺派を主導したのは小説の神様ではなく、彼だったのです。
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芥川龍之介の甘いもの好きは有名ですが、次の文章がよくそれを伝えています。「芥川氏はこゝまで一気に語つて菓子をつまんで口の中へ入れ、いつまでも口中菓子だらけにしてもがもがする。」(「芥川龍之介氏縦横談」大正8年) もがもがしている芥川が目に浮かんでくるようです。
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芥川龍之介は亡くなる2年半前、記者に一番懐かしい人物を聞かれ「それは夏目先生です」と。そして「先生が我儘な位正直な所も宜いですね。それから先生の趣味も好きですね。それから非常に親切だつたことも嬉しかつたですね」と語っています。2人の交流が僅か1年だったことが本当に残念でなりません。
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森鷗外に傾倒していた太宰治は、無名時代の昭和10年、「鷗外の作品、なかなか正当に評価されざるに反し、俗中の俗、夏目漱石の全集、いよいよ華やかなる世情、涙いづるほどくやしく思ひ」と『東京日日新聞』に書きました。後年になって漱石も評価していますが、「俗中の俗」とは思い切った物言いです。
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芥川龍之介は「僕は若い時は手当り次第本を読んだもんです。小説と云わず、戯曲と云わず、詩歌と云わず、其他の学問の本と云わず、何でも滅茶苦茶に読んだんです」と語っています。多読したからといって、誰もが芥川になれないのは当然ですが、多読しなければ、芥川は芥川でなかったかもしれません。
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小川未明一家のスペイン風邪罹患を慰めるために編まれた『十六人集』(大正9年、新潮社)の初版本。芥川龍之介・菊池寛・佐藤春夫などが名を連ね、跋は恩師坪内逍遥です。当時は作家を救済するための本が数多く作られ、印税を寄付しました。協力する作家たちと共に、応じた出版社も立派だと思います。
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昭和28年の今日、堀辰雄が死去。「君にあつたほどの人はみな君を好み、君をいい人だといつた。そんないい人がさきに死ななければならない、どうか、君は君の好きなところに行つて下さい、堀辰雄よ、さよなら」師事した室生犀星の弔辞です。堀は天国のもう一人の師、芥川龍之介の所へ行ったのでしょう。
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泉鏡花は尾崎紅葉から「何でも構わず多く読め」「銭さへあれば本を買つて置け、どんな本でも三年立つうちには必ず役に立つ」と教えられました。鏡花によれば、紅葉は朝から深夜まで原稿を執筆しても、いつも床に入ってから読書をしたそうです。死期が迫る中、百科事典を購入した逸話を思い出します。
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昭和2年、芥川龍之介は谷崎潤一郎に森鷗外の『即興詩人』重版本を贈りました。谷崎が神戸の古本屋で買いそびれたのを聞いたからで、「初版でなくつてもよござんすかね」と確認したそうです。芥川の死後、谷崎はそれが形見分けだったと気がつきます。両文豪が手にした『即興詩人』の行方は存じません。
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泉鏡花の告別式での徳田秋聲・谷崎潤一郎・佐藤春夫。秋聲は谷崎に尾崎紅葉夫人など参列者を教えてくれました。谷崎を鏡花に初めて紹介したのも秋聲で、しかも「ねえ、泉君、君は谷崎君が好きだろ?」と語りかけ、谷崎を感激させています。秋聲、いい人ですね。それにしても、画像の春夫の眼が・・・
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毎年6月になると「太宰治モード」にスイッチが入ります。太宰は明治42年6月19日に生まれ、昭和11年6月25日第一小説集『晩年』を刊行。23年6月1日「人間失格(第一回)」を発表後、13日に入水し死亡(戸籍上は14日)、19日に遺体が発見されました(桜桃忌)。今月の「太宰ツイート」の増加をお許しください。
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「先生は子供を、子供だと想ひ過ぎる。先生よ、おまへとおまへの教へる子供とは大方同し常識を持つてるんだぞ。」20歳の中原中也が日記に書いた言葉です。91年後の教師も噛み締めるべき金言だと思います。
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森鷗外が夏目漱石に献呈した『涓滴』です。明治43年10月18日の両名の日記に授受の記載があり、漱石は修善寺の大患により入院中でした。鷗外は漱石に6冊の本を贈呈していますが(逆は4冊)、本書以外にも現存するのでしょうか。ちなみに漱石がお返しに贈った『門』は、文京区立森鷗外記念館にあります。
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谷崎潤一郎が初めて萩原朔太郎・室生犀星と会ったのは大正6年、伊香保温泉でした。谷崎は朔太郎の話しぶりを「非常に静かに、決して抑揚をつけることなく、低い調子で、うすい唇を神経質にふるはせながら、縷々として物語る」と書いています。同年刊行の『月に吠える』のイメージそのものですね。
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太宰治は子どもの頃から読書好きだったけれど、兄によれば滅多に人前では読みませんでした。ところが疎開で帰郷した時は、人目を憚らず一心不乱にすごい勢い(人の3倍くらいの速さ)で読んだそうです。若い頃ほど一人で読書をしたいのは、気が散るとかいう問題ではなく、自らを顧みてよくわかります。