初版道(@signbonbon)さんの人気ツイート(新しい順)

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三島由紀夫は高校生とのインタビューで「太宰を見ていつも危険に感じるのは、もし自分がね、太宰を好きで太宰に溺れればね、あんな風になりゃしないかって恐怖感もあるわね。だから自分は違うんだっていう立場を堅持しなきゃ危ないと思ったんですね。太宰の作品読んだ時には」と。本音だと思います。
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川端康成が16歳の娘と同棲するために、親しくもない菊池寛に仕事の紹介を依頼したら、洋行を間近に控えた菊池は詮索もせず、家賃と生活費を援助した上で、「君の小説は雑誌に紹介するやうに芥川によく頼んでおいてやる」と。菊池のずば抜けた面倒見のよさと、芥川への信頼がうかがえるエピソードです。
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中原中也は初対面の横光利一に「僕はあなたに注告をしますが、あなたはもう人と逢はずに街の中へ越して来なさい。そして、電話をひいてときどき話をするやうにしませんか」と言い、横光は「この詩人はこれはただの詩人ではない」と思ったそうです。確かに、ただの詩人でなかったのは間違いありません。
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石川啄木と萩原朔太郎は共に明治19年生まれです。朔太郎が文壇にデビューした時、既に啄木はこの世を去っていましたが、北原白秋よりも与謝野晶子よりも、朔太郎は啄木を評価しています。三好達治の言葉を借りれば、彼はまさに「啄木贔屓」でした。天才歌人と天才詩人を会わせてみたかったですね。
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芥川龍之介の死を悼む名言はたくさん残されていますが、個人的には菊池寛の弔辞や泉鏡花のコメントと並んで、広津和郎の言葉が胸を打ちます。「芥川は、死ぬ時、兜のなかに香を入れておくやうな心がけの男であつたなあ・・・やつぱり、芥川は、ういやつであつたなあ・・・」
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かつて芥川也寸志さんと会った時「お父さんもこの声に近かったのかな」と思いました。龍之介は「低く静かな、それでいて力強く、たくましいとさえ言ってよい声」「名鐘の余韻に近いような声」だったという証言があります。個人的には、漱石芥川賢治中也太宰が、肉声を聴きたかった近代作家五人衆です。
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泉鏡花は自作が映画化(無声)された時、試写室で「あッ、あの字は違っている」「また違っている」と字幕の誤字にばかり気を取られて、映画の内容をほとんど記憶していなかったとのこと。伝聞を記したものですが、文字に厳しかった鏡花ならありそうな話だと思います。
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三島由紀夫の自衛隊市ケ谷駐屯地バルコニーでの演説は、隊員の怒号とヤジで聴き取るのも容易ではありません。後に野上弥生子は「私がもし母親だつたら、『何でマイクを忘れたの?』とその場に走つて届けに行つてやりたかつたでせうよ」と語りました。「三島事件」に関する誰のコメントよりも涙します。
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昭和2年7月27日、芥川龍之介を荼毘に付す火葬炉の鉄扉の札に、最初は「芥川龍之助」と書いてありました。それを谷口喜作(芥川が好んだ菓子店うさぎや主人)が「仏が気にしますから字を改めます」といったようなこと言って、「龍之介」に直したそうです。きっと芥川も安心して天国に行ったことでしょう。
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他人に理解されないと思い悩む時があったら、「我といふ 人の心は たゞひとり われより外に 知る人はなし」という歌を思い出してください。自分を知るのは自分だけ。理解されないのではなく、他人には理解できないものなのだと。少しは気が楽になるかもしれません。歌の作者は谷崎潤一郎です。
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梶井基次郎のことを「志賀直哉の文章で泉鏡花の幻想をつづった作家」、すなわち「インテリの鏡花」だと言ったマイナー作家がいます。なかなか鋭いですね。
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芥川龍之介の自殺が当時どれほど大きな衝撃を周囲に与えたのか、片山広子の言葉が端的に伝えています。「芥川さんはご自分だけでなく、ご自分の死によってまわりの人たちまで一緒に死なしておしまいになりました。」芥川が「越し人」と呼んだ広子も、「まわりの人たち」の一人だったのかもしれません。
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泉鏡花は全集の出版記念会で、最初に尾崎紅葉、次に両親の名を挙げて、生きていたらどんなに喜んでくださっただろうと述べ、最後に「それからもう一人番町で、影ながら皆さんにお礼申し上げてゐる者がございます」と妻すゞにも触れました。律儀にして愛情細やか。鏡花の人柄がわかる挨拶だと思います。
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今年の大学入試センター試験の国語に上林暁の「花の精」が登場。渋い作家だけれど、昔は初版本を探す熱心なファンも多かったです。珍本もあって、フルコンプリートに15年位かかりました。太宰治とも親交があり、太宰の「黄金風景」と上林の「寒鮒」が「短篇小説コンクール」で当選を分け合っています。
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太宰治は「文学賞を与へるとすれば」というアンケート(昭和11年)で『梶井基次郎小説全集』を挙げるほど高く評価していました。ちなみに太宰の小説「鷗」(昭和15年)で「梶井基次郎などを好きでせうね」と聞かれた主人公は、「このごろ、どうしてだか、いよいよ懐かしくなつて来ました」と答えています。
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「芥川賞の季節になるといつも太宰治を思ひ出す。」(佐藤春夫)
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漱石も谷崎も芥川も川端も太宰も三島も、多くの近代作家のかなりの数の作品は古典の素養がないと面白さが半減するので、「近代文学は本当に必要なのか」と問われているのに近いと思います。 #古典は本当に必要なのか
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「これだから平成生まれは」とか「昭和は無理」と世代間ギャップに元号を用いるのは、別に目新しい表現ではありません。「明治ツ児と大正ツ児とでは感覚に大変な相違がある」と徳田秋聲も語っていますから。
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三島由紀夫は「率直に申し上げますと」とか「正直に言わせてもらえれば」といった前置きが嫌いでした。「一言のいつはりもすこしの誇張も申しあげません」とか「生涯いちどの、生命がけのおねがひ申しあげます」と手紙の冒頭に書く太宰治は、そうでもなさそうです。
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「真夜中に 格納庫を出た飛行機は ひとしきり咳をして 薔薇の花ほど血を吐いて 梶井君 君はそのまま昇天した 友よ ああ暫らくのお別れだ…… おっつけ僕から訪ねよう!」(三好達治「首途」)   かつて梶井が葡萄酒だと言って渡したコップを満たす喀血。それが薔薇の花の原風景だったのかもしれません。
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世の中でコミュニケーション能力や対人関係能力が大切なのは確かですが、それを強調するあまり、他人になかなか心を開けない性格の人が息苦しさを感じる社会になってはいけないと思います。「僕は親子兄弟と云ふ血縁の関係にある者に対しても打ち解ける事が出来ない。」谷崎潤一郎の言葉です。
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横光利一によれば、芥川龍之介は「逢ふと必ず志賀直哉を賞めてゐた人」だったそうです。太宰治が志賀の批判に過剰な反発を示した一因は、敬愛する芥川が一目置くほどの人物だからこそ、認めてほしいという思いの裏返しでしょう。「二行でもいいから讃めて貰へばよかつた」井伏鱒二の志賀への言葉です。
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海軍機関学校時代の芥川龍之介。晩年の病的な顔を見慣れているせいか、穏やかな表情だと思いますが、よく見ると左目が・・・
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芥川龍之介によれば、ロシア人のエリセーエフ(後に日本文学などのハーバード大学教授)が夏目漱石に「庭に出た」と「庭へ出た」の違いを尋ねたら、「先生は、俺も分らなくなつちやつたと言つて居られた」とのこと。「分らなくなつちやつた」とは、漱石先生、なんとも可愛いらしい表現ですね。
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永井荷風はフランスから帰国後「日本に帰つて先ず感ぜられるのは、亜米利加や仏蘭西などの生活状態に比べて、我国の其れは、如何にもセカセカして余裕もなければ、趣味にも乏しいと云ふ事だ」と書いています。もし今、荷風が蘇ったら、21世紀になっても日本は殆ど変わっていないと嘆くかもしれません。