初版道(@signbonbon)さんの人気ツイート(新しい順)

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三島由紀夫は梶井基次郎について「氏は日本文学に、感覚的なものと知的なものとを総合する稀れな詩人的文体を創始したのであります」と書いています。梶井文学をこれほど適切に表現した言葉を他に知りません。
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井伏鱒二によれば、関東大震災の時「菊池寛は愛弟子横光利一の安否を気づかつて、目白台、雑司ヶ谷、早稲田界隈にかけ、『横光利一、無事であるか、無事なら出て来い』といふ意味のことを書いた旗を立てて歩いた」そうです。事実かどうかは不明ですが、菊池が横光に対してならば、あり得る話でしょう。
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炎上したLINEヘルスケアの医師は「芥川龍之介とか、太宰治とか、頭の良い人は大体自殺していますので生きている価値がないというのは正解なんでしょうね」と。しかし彼らは人が生きることの価値を否定していません。自分が生きる意味を悩んだのであり、こんなところで名前を出されたのは迷惑でしょう。
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昭和2年の今日、芥川龍之介の葬儀がありました。友人総代の弔辞を読んだ菊池寛は、溢れる涙を抑えられず「友よ、安らかに眠れ!」の後は言葉になりませんでした。当時の新聞には「氏は遂に慟哭しばし霊前に泣き伏して仕舞つた」と。近代作家の葬儀でこれほど満場が涙で包まれた瞬間を他に知りません。
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明治45年4月13日、石川啄木危篤の報を受けた若山牧水は急ぎ駆け付けました。啄木は牧水の顔を見つめ、かすかに笑ったそうです。啄木が最も心を許した歌人は牧水だったはずだから、彼に最期を看取ってもらえたのは幸せでした。後年、牧水は啄木の故郷を三回訪問。盛岡には二人の友情の歌碑があります。
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93年前の今日、芥川龍之介は自らの命を絶ちました。この年は暑い日が続いたものの、昭和2年7月24日の東京は終日雨でした。友人知人達は降りしきる雨の中を駆けつけたのです。ちなみに芥川を敬慕した太宰治の遺体が発見された昭和23年6月19日も雨。稀代の天才作家達の死に天も涙したのかもしれません。
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武者小路実篤は、人生を暗く考えているらしい若者と会った時「自分は死を考えても悲観許りはしていられないと思うが、そう思えとその人には言えなかった」と書いています。悩んでいる人、辛い思いをしている人に「人生いいこともあるよ」と励ますことが、常に正しいわけではないと実篤から学びました。
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中原中也の詩『サーカス』の「茶色い戦争」はなぜ「茶色」なのか。音楽評論家の吉田秀和は、「セピア色」ではなく「中原の頭のなかにあったのは中国の大地や砂塵でした。本人から聞いたから間違いない」と(小池民男『時の墓碑銘』)。ちなみに中也は、生後半年で父親(軍医)の赴任地中国に行っています。
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坂口安吾によれば、織田作之助は安吾、太宰治との座談会の速記に「全然言はなかつた無駄な言葉を書き加へ」、その狙いは「読者を面白がらせる」ことだったそうです。安吾は「織田のこの徹底した戯作根性は見上げたものだ」と賞賛していますが、果たして太宰は織田の加筆に気がついたのでしょうか。
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横光利一『蠅』の原稿を受け取った菊池寛は「君の蠅は、のせる。君のだけが小説だ」と書き送り、『文芸春秋』大正12年5月号に掲載され出世作となりました。「君のだけが小説だ」、新人作家にとってこれ以上の誉め言葉があるでしょうか。横光はこの手紙を読んだ時の感激を終生忘れなかったと思います。
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檀一雄に「君は(中略)天才ですよ。沢山書いて欲しいな」と言われた太宰治は「身もだえるふうだった。しばらくシンと黙っている。やがて、全身を投擲でもするふうに、「書く」私も照れくさくて、ヤケクソのように飲んだ。」(檀一雄『小説太宰治』)身もだえる太宰も、自分で言って照れる檀も可愛いです。
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『140字の文豪たち』(秀明大学出版会、税込千円)が完成しました。来週末から発売ですが、小出版社による少部数の本なので、紀伊國屋書店(全国に配本)と神保町の東京堂書店以外は大きな店舗しか置かれません。お近くの書店にない場合は、お手数をかけますが店舗かネットでご注文いただければ幸いです。
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夢野久作の幻魔怪奇探偵小説『ドグラ・マグラ』の初版本(左)と6版本(右)では、背と扉の出版社名が松柏館書店から春秋社に変わっています。奥付と函の背は変化なし。表裏一体のような両書店ですが、理由は存じません。
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梶井基次郎に『伊豆の踊子』の校正をしてもらった川端康成は、自分の作品が裸にされた恥かしさを感じ、「彼は私の作品の字のまちがひを校正したのでなく、作者の心の隙を校正したのであつた」と語っています。「作品のごまかしはすつかり掴んでしまつた」とも。川端にこう言わせるとはさすが梶井です。
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中原中也は若い人に人気が高い一方で、大人になるまで読んだことがない人には敬遠されることも。しかし、大人が鑑賞しても素晴らしい詩ばかりです。信じられない方に小林秀雄の『山羊の歌』推薦文を贈ります。「嘘だと思つたら詩集を買つて読んでごらん。彼が当代稀有の詩人である事がわかるだらう。」
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若き日の文豪が、ある女性に恋したことを友人に告げた手紙の一節を紹介しましょう。「僕は其の人に欺かれてもよい、弄ばれてもよい、殺されてもよい。」「其の人の夫となれずば、甘んじて其の人の狗、其の人の馬、其の人の豚とならう。」文豪の名前は書くまでもありませんね。もちろん谷崎潤一郎です。
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昨日の朝ドラ「エール」で、戦前の古本屋に来た若い女性が『吾輩は猫である』の表紙を見て初版と察知。理由は上巻に「上」の表記がないから。戦後の複製本が小道具なのも気にならないほど感動しました。ただし8版までの表紙は「上」の表記がないので、厳密には表紙だけで初版かどうかはわかりません。
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太宰治が芥川賞候補となったのは1回だけ(第1回)です。佐藤春夫との応酬が有名なので、第3回も候補だったと誤解している方が結構いますが、予選候補にすら入っていません。それにしても、72年前には太宰の遺体がまだ発見されていなかった今日、お孫さんが芥川賞候補と発表されたことに宿命を感じます。
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72年前の今日、『朝日新聞』朝刊に「太宰治氏家出か」という記事が掲載され大騒ぎに。ただ太宰の「自殺未遂歴」を知る多くの人は、彼が死んだとは思っていませんでした。しかし美知子夫人は16日朝、「今度だけは本当に死ぬような気がする」と河盛好蔵に話しています。感じるものがあったのでしょうか。
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6月13日は太宰治が山崎富栄と入水した日です。太宰の服装は白のワイシャツにねずみ色のズボンでした。長雨により、太宰の捜索は難航を極めました。そして三鷹は今日も雨。富士には月見草がよく似合いますが、やはり太宰には雨がよく似合う気がします。
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猫好きの谷崎潤一郎は「犬はジヤレつく以外に愛の表現を知らない。無技巧で単純です」と書き、犬好きの志賀直哉は猫について、「うるさくて、きたならしくて、僕は猫はキライなんだ」と語っています。身贔屓の強さでも、両文豪は一歩も引けを取らないようです。
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谷崎は食べるのが速いので、よく煮たもの以外箸をつけない鏡花は鍋の中に仕切りを置き「君、これは僕が喰べるんだからそのつもりで」と。しかし谷崎は忘れ、鏡花が「あツ君それは」と言っても間に合わず。その時の鏡花の情けない顔つきが可笑しくて、谷崎はわざと食べてしまったことも。悪い奴ですね。
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中学生の時、作文で一生と生涯の両方を使ったら「同じ意味の言葉は一つにしなさい」と先生に言われました。そこで「三島由紀夫は2.3行ごとに同じ言葉が出てこないように注意して「病気」と書いたら次に「やまひ」と書こうとしたそうです」と話したら「お前は三島ではないだろ」と。残念な先生でした。
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佐藤春夫によれば、泉鏡花は作品中で「紅葉」(もみじ)という文字を避けて「霜葉朱葉その他の文字」をわざわざ使ったそうです。「紅葉」が一度も出てこないかは知りませんが、確かに「折から菊、朱葉の長廊下を」(『妖魔の辻占』)など用例はたくさんあります。鏡花を弟子に持った尾崎紅葉は幸せですね。
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三好達治が梶井基次郎と最後に会ったのは昭和6年10月末のこと。三好が帰る時、既に病が進行し衰弱していたものの、梶井は制止をきかず門の外まで見送りに出ました。再会を約して急いでバスに乗った三好が振り返ると、梶井はまだそこに立ち尽くしていたそうです。これが二人の永遠の別れとなりました。