初版道(@signbonbon)さんの人気ツイート(新しい順)

176
ある有名な女優のマネージャーから連絡があり「○○が太宰治の大ファンで、彼のサイン本がほしいと言っている。あなたがたくさん持っていることは古本屋から聞いた。ついては○○の写真集のサイン本と交換してもらえないか」と。もちろん丁重にお断りしました。「正気ですか?」とは尋ねませんでした。
177
今日は菊池寛の誕生日です。自宅前で息子とこの写真を撮ったのが、正月なのかは存じません。ただ龍の字の凧が天高く舞い上がった時、天国にいる親友を思い出したのは間違いないと信じます。
178
佐藤春夫が編集し、物故作家59人の写真と略伝が載った『文芸懇話会』昭和12年5月号です。太宰治は、近代文学関係で唯一この雑誌を三鷹時代にずっと書斎に置き、特別に大切に保存していました(美知子夫人の証言)。きっと太宰も、この可愛いポーズの芥川龍之介の写真を何度も眺めたのでしょうね。
179
三鷹市の「太宰治展示室」に行ってきました。限られたスペースなのに、予想をはるかに超えるクオリティの高さでした。これをきっかけに、今度こそ太宰治記念館ができることを願います。なお、ささやかな寄贈を申し出たので、いずれ書斎を再現した部屋で、皆さんに手に取っていただけるかもしれません。
180
どの自治体も今年度は税収不足なので、来年度の公的な文学館・記念館の予算はいずこも厳しくなります。そこである文学館の学芸員の方が館独自のクラウドファンディングを提案したら、役所の人から「コロナ禍の今、文化的な事業は後回し」と言われたそうです。誠に文化果てる国を実感する話であります。
181
川端康成や三島由紀夫が愛した『山の上ホテル』のコーヒーパーラー「ヒルトップ」の季節限定メニュー「苺のクレープシュゼットとクリームチーズのアイス」です(来年2月28日まで)。温かいイチゴのクレープとアイスの取り合わせが絶品。間違いなく幸せな気分になれます。
182
芥川龍之介の自筆原稿を落札してしまいました。もう芥川の原稿は卒業したのに、つい・・・理由は3つあります。1つは全集未収録だったこと(ただし新出資料ではありません)。もう1つは中学生の芥川が書いたお茶目な文章だったこと。そして最後は気の毒なほど安かったこと。後悔は・・・しておりません!
183
将棋をさす作家たち。太宰治vs井伏鱒二、川端康成vs横光利一、江戸川乱歩vs吉川英治です。
184
三鷹市には「女と心中するような男に税金をかけるな」といった声が根強くあり、太宰治を顕彰する活動は容易ではありません。「文学サロン」も「展示室」も関係者の努力と献身の末に生まれたものです。太宰文学を愛し、三鷹市で生まれ幼少期を過ごした者として、これからはもっと応援しようと思います。
185
行きつけのコーヒーパーラー「ヒルトップ」(山の上ホテル内)が、復刻版プリンアラモードなどのインスタ映え効果で、最近若い女性客に大人気です。ホテルの常連客だった三島由紀夫は苦笑しているでしょう。「ねがはくは、ここが有名になりすぎたり、はやりすぎたりしませんやうに」と書いていますから。
186
夏目漱石の一周忌早朝の写真(大正6年12月9日)です。左から芥川龍之介・久米正雄・江口渙。久米家周辺で撮影され、あまり目にしないと思います。この日の『東京日日新聞』には、久米と漱石の長女筆子の結婚話がなくなったという記事が出ていましたが、久米が撮影時にそれを知っていたかは存じません。
187
菊池寛は芥川龍之介について「自分は彼の将来に就いては可成安心してゐる。芸術家も芸術家的壮心がなくなると駄目だが、芥川などは四十になつても五十になつても、かうした心持を失はないだらうと思ふ」と書いています。大正9年のことでした。それから7年後の彼の運命を知る者は、ただ俯くばかりです。
188
二葉亭四迷の妻によれば、夫が船中で亡くなった時、遺体の枕の下から「遺族のことをよろしく頼みます」と書かれた坪内逍遥宛の手紙が出てきました。逍遥はすぐに内田魯庵と遺稿集『二葉亭四迷』を編纂し、鷗外・漱石・露伴・藤村らが執筆。彼は以後も遺族をサポートし、二葉亭の願いに応えたのでした。
189
10月30日は「初恋の日」。明治29年、島崎藤村が「初恋」の詩を『文学界』に発表したことに因んだそうですが、同誌で藤村と共に同人だった上田敏は、「そんなことよりも今日は私の誕生日だ!」と言いたいところでしょう。もっとも泉鏡花にとって10月30日は、尾崎紅葉の命日でしかありえないと思います。
190
雑誌に掲載されたツーショットの写真に抗議する室生犀星と萩原朔太郎。犀星は「まるで下駄が眼鏡をかけてゐるやうだ」「僕は人一倍つらを気にする男だ」と憤慨し、朔太郎も「特に室生君のはヒドい」と援護しました。ちなみに抗議文と同じ号に載った2人の顔(両端、佐藤惣之助撮影)はよく見えません。
191
横光利一が亡くなった時、川端康成は画家荻須高徳の部屋で、空が大きく雲の多い2枚の絵を見ていました。後で横光がその時刻に死去したことを知った川端は、その絵を借りて自宅で眺め、「雲によつて私は横光君に出合ふやうにも感じた」と書いています。川端の友情に天国の横光も感謝していたでしょう。
192
芥川龍之介は「今までよく皆に悪く云はれた小説で先生にだけほめて頂いたのがありますさう云ふ時には誰がどんな悪口を云つても平気でした先生にさへ褒められればいいと思ひました」と手紙に書いています。「先生」はもちろん夏目漱石、宛先は鏡子夫人です。こんな風に思える先生と出会いたかったです。
193
講演前にくつろぐ芥川龍之介と久米正雄(大正13年、早稻田第一高等学院)。芥川は「プロレタリア文芸」について講演し、その将来に期待を寄せました。彼に小林多喜二の『蟹工船』を読んでもらいたかったと思います。
194
大正時代の「文壇人女見立之図」(その二)です。谷崎潤一郎ーダンサー、佐藤春夫ーショーガール、近松秋江ー老妓、泉鏡花ー義太夫、芥川龍之介ー殉教徒、菊池寛ー令嬢、里見弴ー踊りの師匠、志賀直哉ー貴婦人とあります。芥川の助を介に直したり、菊池の服に将棋の駒をあしらうなど中々芸が細かいです。
195
小林多喜二『蟹工船』(昭和4年、戦旗社)の初版本無削除版。本書は最後のページを切って刊行されたけれども発禁処分に。日本近代文学館の複刻も削除本で、無削除版の存在自体があまり知られていません。『月に吠える』無削除版を超える超稀覯本で3冊のみ実見。言論の自由の大切さを伝える究極の本です。
196
悲しい時、辛い時、苦しい時ほど、傍らに本があることが救いになってきました。たとえ読むだけの精神的なゆとりがなくても、本の背表紙を見るだけで心が安らぐのです。本に囲まれた人生で本当に良かった。還暦を前にして心からそう思います。
197
大正時代の「文壇人女見立之図」です。文豪を女性に見立てることは昔から行われていました。武者小路実篤ー尼僧、田山花袋ー女流教育家、島崎藤村ー聖母マリア、正宗白鳥ー隠居、久米正雄ーアナウンサ(モダン・ガール)、久保田万太郎ー下町娘、徳田秋聲ー未亡人とあります。あまりピンと来ませんが・・
198
芥川龍之介は、取材記者が「雑誌の〆切が今日なんで、是非かういふ問題でー」と切り出したのに対して、「僕は、雑誌のことなんてどうでもいいんだけれども、君のために話しませう」と語ったそうです。面と向かってこんなことを言われたら、どんな記者でも芥川の信奉者になってしまうでしょうね。
199
芥川龍之介は酸味のない果物を好み、特に無花果が一番の好物で、嫌いな筆頭格は蜜柑だと語っています。その蜜柑を題材にしてあの珠玉の名作を書いたのだから、やはり凄い作家です。ちなみに当初『蜜柑』は「私の出遇つた事」の総題の下で書かれ、菊池寛は芥川から口頭でこの話の粗筋を聴いたそうです。
200
吉行淳之介が川端康成に、銀座の酒場も近頃高くなったので滅多に行きませんと話したら、「じゃ勘定払わなきゃあいいじゃありませんか」と。吉行は「高僧の一喝にあったような気がした」そうですが、さすがに川端ともなると人の受止め方が違うもので、一般人が言ったら単なる無銭飲食の勧めであります。