176
ある有名な女優のマネージャーから連絡があり「○○が太宰治の大ファンで、彼のサイン本がほしいと言っている。あなたがたくさん持っていることは古本屋から聞いた。ついては○○の写真集のサイン本と交換してもらえないか」と。もちろん丁重にお断りしました。「正気ですか?」とは尋ねませんでした。
178
179
180
どの自治体も今年度は税収不足なので、来年度の公的な文学館・記念館の予算はいずこも厳しくなります。そこである文学館の学芸員の方が館独自のクラウドファンディングを提案したら、役所の人から「コロナ禍の今、文化的な事業は後回し」と言われたそうです。誠に文化果てる国を実感する話であります。
181
182
芥川龍之介の自筆原稿を落札してしまいました。もう芥川の原稿は卒業したのに、つい・・・理由は3つあります。1つは全集未収録だったこと(ただし新出資料ではありません)。もう1つは中学生の芥川が書いたお茶目な文章だったこと。そして最後は気の毒なほど安かったこと。後悔は・・・しておりません!
184
三鷹市には「女と心中するような男に税金をかけるな」といった声が根強くあり、太宰治を顕彰する活動は容易ではありません。「文学サロン」も「展示室」も関係者の努力と献身の末に生まれたものです。太宰文学を愛し、三鷹市で生まれ幼少期を過ごした者として、これからはもっと応援しようと思います。
185
186
187
菊池寛は芥川龍之介について「自分は彼の将来に就いては可成安心してゐる。芸術家も芸術家的壮心がなくなると駄目だが、芥川などは四十になつても五十になつても、かうした心持を失はないだらうと思ふ」と書いています。大正9年のことでした。それから7年後の彼の運命を知る者は、ただ俯くばかりです。
188
二葉亭四迷の妻によれば、夫が船中で亡くなった時、遺体の枕の下から「遺族のことをよろしく頼みます」と書かれた坪内逍遥宛の手紙が出てきました。逍遥はすぐに内田魯庵と遺稿集『二葉亭四迷』を編纂し、鷗外・漱石・露伴・藤村らが執筆。彼は以後も遺族をサポートし、二葉亭の願いに応えたのでした。
189
10月30日は「初恋の日」。明治29年、島崎藤村が「初恋」の詩を『文学界』に発表したことに因んだそうですが、同誌で藤村と共に同人だった上田敏は、「そんなことよりも今日は私の誕生日だ!」と言いたいところでしょう。もっとも泉鏡花にとって10月30日は、尾崎紅葉の命日でしかありえないと思います。
190
191
横光利一が亡くなった時、川端康成は画家荻須高徳の部屋で、空が大きく雲の多い2枚の絵を見ていました。後で横光がその時刻に死去したことを知った川端は、その絵を借りて自宅で眺め、「雲によつて私は横光君に出合ふやうにも感じた」と書いています。川端の友情に天国の横光も感謝していたでしょう。
192
芥川龍之介は「今までよく皆に悪く云はれた小説で先生にだけほめて頂いたのがありますさう云ふ時には誰がどんな悪口を云つても平気でした先生にさへ褒められればいいと思ひました」と手紙に書いています。「先生」はもちろん夏目漱石、宛先は鏡子夫人です。こんな風に思える先生と出会いたかったです。
193
194
195
196
悲しい時、辛い時、苦しい時ほど、傍らに本があることが救いになってきました。たとえ読むだけの精神的なゆとりがなくても、本の背表紙を見るだけで心が安らぐのです。本に囲まれた人生で本当に良かった。還暦を前にして心からそう思います。
197
198
芥川龍之介は、取材記者が「雑誌の〆切が今日なんで、是非かういふ問題でー」と切り出したのに対して、「僕は、雑誌のことなんてどうでもいいんだけれども、君のために話しませう」と語ったそうです。面と向かってこんなことを言われたら、どんな記者でも芥川の信奉者になってしまうでしょうね。
199
芥川龍之介は酸味のない果物を好み、特に無花果が一番の好物で、嫌いな筆頭格は蜜柑だと語っています。その蜜柑を題材にしてあの珠玉の名作を書いたのだから、やはり凄い作家です。ちなみに当初『蜜柑』は「私の出遇つた事」の総題の下で書かれ、菊池寛は芥川から口頭でこの話の粗筋を聴いたそうです。
200
吉行淳之介が川端康成に、銀座の酒場も近頃高くなったので滅多に行きませんと話したら、「じゃ勘定払わなきゃあいいじゃありませんか」と。吉行は「高僧の一喝にあったような気がした」そうですが、さすがに川端ともなると人の受止め方が違うもので、一般人が言ったら単なる無銭飲食の勧めであります。