初版道(@signbonbon)さんの人気ツイート(いいね順)

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あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願いします。さて令和5年は卯年。近代文学では、泉鏡花が向かい干支に当たる兎の品物を蒐めたことが有名です。ちなみに鏡花が敬慕した尾崎紅葉の干支は卯でした。画像の初版本は『活人形』『風流線』『高野聖』『婦系図』『日本橋』の極美完本です。
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芥川龍之介「僕の佐藤春夫評は当てにならん、概して佐藤の書いたものを悪かつたと思つたことは稀だからな。」田山花袋「そんなに好いですか。」芥川「ちよつと気持ちが贔屓なのですね、だから公平な判断は外の人から聞いた方が好いかも知れない。」これを読んだ春夫は、さぞかし嬉しかったでしょうね。
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「若いころの室生君はおもしろかったよ、浅草の草津という料亭に僕を招いてくれた時のことだが、その席に侍った太っちょのロシア女の肌を見て、『君、君、君の肌は昆虫の羽のようだね、僕に触らせてくれませんか』などと大袈裟な物の言い方をするんだよ。」OKが出たかは存じません。「僕」は白秋です。
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三島由紀夫『仮面の告白』の初版本です。カバー・帯・月報が付いて完本。この傑作に出会ったのは小学校3年生の時でした。異様な世界に魅了され彼の小説を読み漁る中、4年生の時に三島事件がありました。『仮面の告白』の原稿は行方不明で、河出書房のロッカーの上に置かれていたとも。見てみたいです。
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今日は田山花袋の命日です。島崎藤村は死の床の花袋に「この世を辞して行くとなるとどんな気がするかね」と尋ね批判も受けますが、これは「もう自分も死を覚悟しなければなるまい」という花袋の言葉を受けての言葉でした。そして2人は、藤村が『春』の初版本を完成直後に贈る古い関係でもありました。
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太宰治は子どもの頃から読書好きだったけれど、兄によれば滅多に人前では読みませんでした。ところが疎開で帰郷した時は、人目を憚らず一心不乱にすごい勢い(人の3倍くらいの速さ)で読んだそうです。若い頃ほど一人で読書をしたいのは、気が散るとかいう問題ではなく、自らを顧みてよくわかります。
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中原中也は初対面の横光利一に「僕はあなたに注告をしますが、あなたはもう人と逢はずに街の中へ越して来なさい。そして、電話をひいてときどき話をするやうにしませんか」と言い、横光は「この詩人はこれはただの詩人ではない」と思ったそうです。確かに、ただの詩人でなかったのは間違いありません。
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太宰治の展覧会は、一昨年「没後70年」、昨年「生誕110年」と銘打って開催されました。今年は「生誕111年」が大義名分。これは漱石や芥川でもなかったことですが、太宰は迷惑ではないでしょう。「太宰君は、自分がピエロで周囲をにぎやかにして人を喜ばすことが好きであった」(井伏鱒二)そうですから。
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芥川龍之介は、取材記者が「雑誌の〆切が今日なんで、是非かういふ問題でー」と切り出したのに対して、「僕は、雑誌のことなんてどうでもいいんだけれども、君のために話しませう」と語ったそうです。面と向かってこんなことを言われたら、どんな記者でも芥川の信奉者になってしまうでしょうね。
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佐藤春夫が『田園の憂鬱』の筋を谷崎潤一郎に話したら、大いに褒めて「饒舌つてばかりいないで本当に書くんだよ」と。春夫はここで自信を得なかったら、多分何も書く気になれなかったそうで、「今迄の文学的生涯の中で、一番嬉しかつた事」と大正9年に語っています。二人の奇しき縁のスタートでした。
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三島由紀夫の自衛隊市ケ谷駐屯地バルコニーでの演説は、隊員の怒号とヤジで聴き取るのも容易ではありません。後に野上弥生子は「私がもし母親だつたら、『何でマイクを忘れたの?』とその場に走つて届けに行つてやりたかつたでせうよ」と語りました。「三島事件」に関する誰のコメントよりも涙します。
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【初版本で読む中原中也の詩】 「サーカス」「汚れつちまつた悲しみに・・・」(『山羊の歌』より)、「一つのメルヘン」(『在りし日の歌』より)です。すべて知っている方も多いのでしょうね。「初版本で読むと詩の内容まで良くなる。」中也と並び称される抒情詩人立原道造の言葉です。
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「真夜中に 格納庫を出た飛行機は ひとしきり咳をして 薔薇の花ほど血を吐いて 梶井君 君はそのまま昇天した 友よ ああ暫らくのお別れだ…… おっつけ僕から訪ねよう!」(三好達治「首途」)   かつて梶井が葡萄酒だと言って渡したコップを満たす喀血。それが薔薇の花の原風景だったのかもしれません。
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泉鏡花は純和風のイメージですが、里見弴によれば意外なほどハイカラだったと。帽子はクリスティー、練歯磨はクロノス、タバコは葉巻・紙巻共に外国製の上等品を愛蔵し、湿布薬も国産品は気に入らず舶来品を使用。洋酒にもこだわりがありました。弴の言葉を借りれば「『鏡花世界』らしくない」ですね。
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戦後の太宰治は「芥川龍之介、芥川龍之介」とノートに記した学生時代と比べ、芥川への傾倒が薄れていたと考える人もいるようです。しかし太宰が晩年に語ったとされる「僕も四十まで生きようとは思はなかつたが、芥川のことを考へると恥かしい」という言葉からは、彼を終生敬愛していたことが窺えます。
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今日は中島敦の誕生日です。谷崎潤一郎や芥川龍之介に負けず、敦の学校の成績は抜群でした。京城中学校(現ソウル)では開校以来の秀才と言われたそうで、今の東大より遥かに難関の旧制一高にも飛び入学しています。小学校での2回の転校や父母(義母2人)との不和も敦の天分を損なうことはなかったのです。
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志賀直哉と三島由紀夫が『斜陽』の敬語の使い方を批判したのは有名ですが、ドナルド・キーン氏は、外国語訳で読めばその「欠点」は消えてしまうから、二人も最後まで読んでくれたかもしれないと書いています。もっとも、三島は太宰治の「自己憐愍」を嫌い、太宰文学の英訳に猛反対したそうです。
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泉鏡花は自作が映画化(無声)された時、試写室で「あッ、あの字は違っている」「また違っている」と字幕の誤字にばかり気を取られて、映画の内容をほとんど記憶していなかったとのこと。伝聞を記したものですが、文字に厳しかった鏡花ならありそうな話だと思います。
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尾崎紅葉の葬儀次第(明治36年11月2日)です。この紙は何枚現存するのでしょうか。位牌を持つのは泉鏡花。当然ですね。
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梶井基次郎は大正14年、友人と武者小路実篤を訪ね、「檸檬」収録の『青空』創刊号を贈呈しました。実篤は上機嫌で応対し、帰り際に「他に用はなかったの」とやさしく尋ねたそうです。梶井たちが推測したように、金の無心を言い出しかねていると慮ったのでしょうか。人柄が滲み出た良い話だと思います。
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中国人バイヤーから芥川龍之介の代表作の自筆原稿を譲ってほしいと連絡があり、提示されたのは超高額でした。中国で人気の高い日本の近代作家と言えば、以前より芥川の名前も挙がっていたけれど、自筆原稿の需要があるとは驚きです。ちなみにお断りしました。
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太宰治の最後の机辺に遺された6冊と同じ本を、三鷹市に寄贈します。高い本はありませんが、同じ版で揃えるのは結構大変です。太宰治展示室の書斎に置き、来場者が自由に触れられること、という厄介な寄贈条件を快諾していただきました。太宰旧蔵書に付いていない帯の扱いについてはお任せしましょう。
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芥川龍之介にロシヤ煙草を買い占めたと抗議された上山草人は、ほぼ全部を贈呈しましたが、芥川はそれを返送。送り状には「こんなに戴いては申しわけがない」「御好意に背かないために一本だけ頂戴する」と。他人への心遣いは命を縮める一因になったけれど、そんな彼を周囲の誰もが愛したのです。
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佐藤春夫は、絶縁された永井荷風の霊前にマロニエの枝と一緒に弔詞を奉げました。「奉る小園の花一枝 み霊よ見そなはせ まろにえ 巴里の青嵐に 黒き髪なびけけん 師が在りし日を われら偲びまつれバ」しかし、この敬慕の念はすぐ嫌悪に変わります。春夫は荷風に恋し、そして破れたのです。
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何か新しいこと、難しいことに挑戦しようとする時、自分にできるのだろうかと不安になるのは当然でしょう。でもそれで躊躇し、止めてしまうのは勿体ないと思います。「人間は自分に何んな事が出来るか、自分の力といふものは、実際に遣つて見なければ自分でも分るものではない。」夏目漱石の言葉です。