初版道(@signbonbon)さんの人気ツイート(いいね順)

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彼の芥川龍之介に「夜半の隅田川は何度見ても、詩人S・Mの言葉を越えることは出来ない」と言わしめるのだから、やはり室生犀星も凄い詩人です。ちなみに犀星の言葉とは「羊羹のやうに流れてゐる」であります。
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泉鏡花が夏目漱石の没後、親愛の情を込めて「夏目さん、金之助さん、失礼だが、金さん」と語ったのは有名ですが、弟への手紙に「猫夏目の処へわざわざ出かけたがネ、留守」と書いているのはあまり知られていません。「猫夏目」とはさすが鏡花。上手すぎます。
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永井荷風から谷崎潤一郎宛書簡(昭和19年3月7日)。死を意識した荷風は、谷崎に全集制作について色々と託し、「小生著書既刊本蒐集者」として4人の名前を挙げています。荷風の住む偏奇館は、翌年3月10日の東京大空襲で焼失。荷風が書いて谷崎が読んだ手紙を手にした感動は、言葉にするのが難しいです。
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佐藤春夫によれば、泉鏡花は作品中で「紅葉」(もみじ)という文字を避けて「霜葉朱葉その他の文字」をわざわざ使ったそうです。「紅葉」が一度も出てこないかは知りませんが、確かに「折から菊、朱葉の長廊下を」(『妖魔の辻占』)など用例はたくさんあります。鏡花を弟子に持った尾崎紅葉は幸せですね。
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中島敦「山月記」の初出単行本『光と風と夢』(昭和17年、筑摩書房)初版本より冒頭ページ。戦時下のため紙は粗悪ですが、これもまた初版本の醍醐味だと思います。『舞姫』『心』『羅生門』と並ぶ高校国語教科書の定番小説になったことを教師だった彼が聞いたら、どんな感想を漏らすのでしょうか。
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今日は正岡子規の命日です。遠くイギリスで訃報に接した夏目漱石は、「倫敦にて子規の訃を聞きて」と題し、5句を高浜虚子に書き送りました。特に「手向くべき線香もなくて暮の秋」は秀句です。漱石は『吾輩ハ猫デアル』中編の序文で親友を追悼。誰よりも彼に『猫』を読んでもらいたかったのでしょう。
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隣のテーブルにいたご婦人の「織田君よくやった」という言葉を小耳に挟み、太宰治の「織田君! 君は、よくやった」をお茶の席で話題にするとは、何と素敵な方だろうと思ったら、フィギュアスケートの選手の話題でした。「『織田君の死』ですね」などと、得意げに話しかけなくて本当によかったです。
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芥川龍之介の中国旅行送別会の写真(大正10年3月9日、上野精養軒)。芥川が挨拶をしている貴重な写真ですが、あまり見ないのは顔がぼやけているからでしょうか。しかしよーく見ると、目や鼻が微かにわかります。そして注目は芥川の向かって右隣。卓上の花の向こうに顔だけ見える久米正雄であります。
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尾崎紅葉の葬列で位牌を持つ泉鏡花。画像では恐らく初めての紹介だと思います。紅葉の壮健時・入院中・退院後・往生・解剖・葬式の写真を掲載した私家版『阿免乃安渡』より。見返しに巌谷小波が句を記した本も複数ありますが、近年滅多に見なくなりました。俯き歩く鏡花の姿が実に印象的ですね。
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夢野久作の幻魔怪奇探偵小説『ドグラ・マグラ』の初版本(左)と6版本(右)では、背と扉の出版社名が松柏館書店から春秋社に変わっています。奥付と函の背は変化なし。表裏一体のような両書店ですが、理由は存じません。
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永井荷風はフランスから帰国後「日本に帰つて先ず感ぜられるのは、亜米利加や仏蘭西などの生活状態に比べて、我国の其れは、如何にもセカセカして余裕もなければ、趣味にも乏しいと云ふ事だ」と書いています。もし今、荷風が蘇ったら、21世紀になっても日本は殆ど変わっていないと嘆くかもしれません。
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三島由紀夫は「何がきらひと云つて、私は酒席で乱れる人間ほどきらひなものはない」と書いています。三島が中原中也と酒を飲んだら、間違いなく大嫌いになっていたでしょう。ちなみに酒席で中也に絡まれ、三島にもその文学が嫌いだと言われた気の毒な作家は太宰治。それでも太宰は酒が好きでした。
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フォロワーさんにプレゼントした芥川龍之介の初版本が、台風19号により水没してしまったそうです。大切にされていたようで嘆き悲しみが深く、少しでも慰めになればと願い、後日同じ本を差し上げることにしました。改めて、天災や戦災を免れて現存している書物のありがたさを感じないではいられません。
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太宰治と同じ三鷹の山本有三は「太宰治様とは年代もちがいますし残念なことに何の交渉もございませんでしたのでなんの資料も持ち合わせておりません」と。しかし娘の玲子さんは『人間失格』執筆中の太宰と熱海で会い、夫(後の新潮社社長)と相合傘を勧められ「イヨーッ!。ご両人!」と言われています。
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芥川龍之介は室生犀星について、「僕を僕とも思はずして、『ほら、芥川龍之介、もう好い加減に猿股をはきかへなさい』とか、『そのステツキはよしなさい』とか、入らざる世話を焼く男」だが、「僕には室生の苦手なる議論を吹つかける妙計あり」と書いています。「僕を僕とも思はずして」がいいですね。
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明治45年4月13日、石川啄木危篤の報を受けた若山牧水は急ぎ駆け付けました。啄木は牧水の顔を見つめ、かすかに笑ったそうです。啄木が最も心を許した歌人は牧水だったはずだから、彼に最期を看取ってもらえたのは幸せでした。後年、牧水は啄木の故郷を三回訪問。盛岡には二人の友情の歌碑があります。
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芥川龍之介は「僕は若い時は手当り次第本を読んだもんです。小説と云わず、戯曲と云わず、詩歌と云わず、其他の学問の本と云わず、何でも滅茶苦茶に読んだんです」と語っています。多読したからといって、誰もが芥川になれないのは当然ですが、多読しなければ、芥川は芥川でなかったかもしれません。
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吉行淳之介が川端康成に、銀座の酒場も近頃高くなったので滅多に行きませんと話したら、「じゃ勘定払わなきゃあいいじゃありませんか」と。吉行は「高僧の一喝にあったような気がした」そうですが、さすがに川端ともなると人の受止め方が違うもので、一般人が言ったら単なる無銭飲食の勧めであります。
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雑誌に掲載されたツーショットの写真に抗議する室生犀星と萩原朔太郎。犀星は「まるで下駄が眼鏡をかけてゐるやうだ」「僕は人一倍つらを気にする男だ」と憤慨し、朔太郎も「特に室生君のはヒドい」と援護しました。ちなみに抗議文と同じ号に載った2人の顔(両端、佐藤惣之助撮影)はよく見えません。
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天皇陛下が退位されたら、かつて「お供も警護もなしに1日を過ごせたら何をなさりたいですか」と問われ「透明人間になって、学生時代よく通った神田や神保町の古本屋さんに行き、もういちど本の立ち読みをしてみたいですね」とお答えになった皇后さまが、神保町を散策できる日も来るかもしれませんね。
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三好達治『測量船』の梶井基次郎宛署名本。散逸した彼の旧蔵書の流転を、傷み具合が象徴しています。三好は刊行の翌月、病気療養中の梶井を見舞っているので、その時に手渡したのかもしれません。死の床にあった梶井は、自分の名前も出てくる親友の処女詩集を、どのような思いで読んだのでしょうか。
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明治大正時代の作家に関心がある方へ『明治大正文豪研究』(昭和11年、新潮社)をお奨めします。『新潮』掲載の「研究座談会」をまとめた本で、同時代の評価がよくわかります。発言が面白いのは断然徳田秋声。特に紅葉・漱石・芥川に対するコメントは、賛否両論あるでしょうが実に興味深いです。
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芥川龍之介自殺への感想一文(独断的選択)。泉鏡花「エ﹅﹅夢ぢやないかな、夢であつてくれゝばいゝが、なんで死んでくれたか、うらめしい。」薄田泣菫「芥川氏はもう生きることに飽きたのだ。」久米正雄「かれは要するに第二の北村透谷だ。」室生犀星「今、自分は疲れてゐて、何も云ふことはない。」
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菊池寛『心の王国』(大正8年、新潮社)初版本の芥川龍之介による跋文。素直な推薦文でないところがいかにも芥川ですが、そんなことは百も承知で依頼した菊池は、これを読んで喜んだと思います。
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今日2月17日は、梶井基次郎の誕生を祝うもよし、命日の坂口安吾を偲ぶのもよいでしょう。しかし文豪森鷗外の誕生日(新暦)であることも、どうぞお忘れなく。