初版道(@signbonbon)さんの人気ツイート(いいね順)

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さいたま文学館の開館25周年記念特別展「永井荷風」(9月17日~11月27日)の監修をします。複製・復刻の展示は全てNGという提案にOKが出たので引き受けました。伝説の発禁本『ふらんす物語』の5冊展示(過去最多は2冊)や新出自筆資料、「文豪とアルケミスト」とのコラボもあります。どうぞお楽しみに。
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川端康成が16歳の娘と同棲するために、親しくもない菊池寛に仕事の紹介を依頼したら、洋行を間近に控えた菊池は詮索もせず、家賃と生活費を援助した上で、「君の小説は雑誌に紹介するやうに芥川によく頼んでおいてやる」と。菊池のずば抜けた面倒見のよさと、芥川への信頼がうかがえるエピソードです。
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文系の「なぜ数学を勉強するの?」への模範回答。「代数や幾何の勉強が、学校を卒業してしまへば、もう何の役にも立たないものだと思つている人もあるやうだが、大間違ひだ。(中略)日常の生活に直接役に立たないやうな勉強こそ、将来、君たちの人格を完成させるのだ」太宰治『正義と微笑』の一節です。
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中学生の時、作文で一生と生涯の両方を使ったら「同じ意味の言葉は一つにしなさい」と先生に言われました。そこで「三島由紀夫は2.3行ごとに同じ言葉が出てこないように注意して「病気」と書いたら次に「やまひ」と書こうとしたそうです」と話したら「お前は三島ではないだろ」と。残念な先生でした。
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芥川龍之介によれば、ロシア人のエリセーエフ(後に日本文学などのハーバード大学教授)が夏目漱石に「庭に出た」と「庭へ出た」の違いを尋ねたら、「先生は、俺も分らなくなつちやつたと言つて居られた」とのこと。「分らなくなつちやつた」とは、漱石先生、なんとも可愛いらしい表現ですね。
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武者小路実篤は夏目漱石と親しく交流していましたが、あることを契機に疎遠に。しかし漱石死去の報に「本当にがつかりした」実篤は、滅多に行かない葬式に参列しました。「僕は今でも夏目さんのことを思ふと、何となく愛されてゐたような温い気持ちを受ける。」実篤らしい、漱石没後23年目の言葉です。
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昔も今も神保町で一番怖い古本屋において、昭和の終わりに耳にした、若い客の最も勇気ある質問。「6時過ぎたら値引きってありますか?」店主の返事は「6時過ぎたら5割増し」でした。常套句の「お前に売る本はない!」に比べれば、穏やかな応対だったと思います。
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芥川龍之介の自筆原稿を落札してしまいました。もう芥川の原稿は卒業したのに、つい・・・理由は3つあります。1つは全集未収録だったこと(ただし新出資料ではありません)。もう1つは中学生の芥川が書いたお茶目な文章だったこと。そして最後は気の毒なほど安かったこと。後悔は・・・しておりません!
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小説を書いているものの、自分の想像力(空想力)に自信のない方に、「私は多少でも自分で実際に経験した事で無ければ、一行も一字も書けない甚だ空想が貧弱の物語作家である」という一文を贈ります。誇張に満ちているけれど、誰にも負けず読まれている近代作家の言葉ですから。太宰治です(『舌切雀』)。
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秋の読書週間が始まり、明日は多くの小中高の集会で校長が「読書の大切さ」について話すでしょう。しかし、その言葉に感化されて図書室に行く児童・生徒は極めて少ないのです。それよりも、担任教師がHRで「私のとっておきの1冊」を紹介する方が、はるかに子どもたちの興味・関心を惹くと思います。
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夏目漱石と森鷗外から正岡子規宛の行方不明になっていた書簡が発見されました。他に子規宛の新出書簡もあります。戦後、子規庵から彼の自筆資料が流出したことは有名だけれど、今回は新たな事実がわかる周辺資料も纏めて残り実に貴重。私のコメントはちょっと?ですが・・・ news.yahoo.co.jp/articles/b631d…
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神田神保町名物T書店主の神回答(全て実話) ①「芥川龍之介とかの本はありますか?」「とかの本はない。」 ②「司馬遼太郎の本はありますか?」「嫌いだから扱わない。」 ③「太宰治の『人間失格』はありますか?」「三省堂にある。」 ④「ガラスケースの本を見せて下さい。」「100万円。」
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三島由紀夫は「率直に申し上げますと」とか「正直に言わせてもらえれば」といった前置きが嫌いでした。「一言のいつはりもすこしの誇張も申しあげません」とか「生涯いちどの、生命がけのおねがひ申しあげます」と手紙の冒頭に書く太宰治は、そうでもなさそうです。
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今日は二葉亭四迷の命日です。その死を朝日新聞社の同僚夏目漱石が知ったのは5月15日で、日記には「二葉亭印度洋上ニテ死去。気の毒なり。遺族はどうする事だらうと思ふ」と。漱石は葬儀後の数時間で「長谷川君と余」23枚を脱稿。これを入手した時は初めての漱石の自筆原稿だったので嬉しかったです。
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萩原朔太郎は梶井基次郎について「梶井君がもし大成したら、晩年にはドストエフスキイのやうな作家になつたか知れない。或はまたポオのやうな詩人的作家になつたかも知れない」と書いています。芥川龍之介ですら、これほど朔太郎に評価されることはありませんでした。梶井に聞かせてやりたかったです。
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夏目漱石の一周忌早朝の写真(大正6年12月9日)です。左から芥川龍之介・久米正雄・江口渙。久米家周辺で撮影され、あまり目にしないと思います。この日の『東京日日新聞』には、久米と漱石の長女筆子の結婚話がなくなったという記事が出ていましたが、久米が撮影時にそれを知っていたかは存じません。
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今日は宮沢賢治の命日です。画像は最初の『宮沢賢治全集』(昭和9〜10年、文圃堂)の内容見本。あまり出てくることがなく、特に予約申込みハガキ付は稀です。賢治の名を世に広めた功労者の一人、横光利一の文章が目を引きます。
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芥川龍之介が死の少し前に出席した日露芸術家座談会の写真です(前列右から2人目)。遅れて加わった芥川は一度も発言せず、話を振られても答えませんでした(画像2枚目)。末尾の手記(画像3枚目)を読んでも、既に精神をかなり病んでいることが窺えます。
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三好達治が梶井基次郎と最後に会ったのは昭和6年10月末のこと。三好が帰る時、既に病が進行し衰弱していたものの、梶井は制止をきかず門の外まで見送りに出ました。再会を約して急いでバスに乗った三好が振り返ると、梶井はまだそこに立ち尽くしていたそうです。これが二人の永遠の別れとなりました。
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室生犀星は毎年早春になると、泉鏡花に軽井沢のウドとワラビを送っていましたが、必ず電報でお礼状が来て、翌日には虎屋の羊羹が届いたそうです。いかにも鏡花らしい律義さに、同郷の後輩である犀星は恐縮したとか。それにしても、昔も今も虎屋は大したものであります。
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議論(口論)の最中にうまい言葉が出て来なくて、後で悔しい思いをされたことはないでしょうか?でもそれは頭の良し悪しとは関係ありません。「人と議論した後ではいつでもさう思ふんだ。なぜあの時あゝ言はなかつたんだらうと。いろんないい言葉が後になつて出てくるんだ」かの芥川龍之介の言葉です。
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世の中は偏見に満ち溢れているもので、夏目漱石が好きと言って真面だと思われ、谷崎潤一郎が好きと言って変態と疑われ、太宰治が好きと言って軟弱だと批判され、三島由紀夫が好きと言って右翼と誤解を受けてきました。しかし泉鏡花が好きと言っても人はまず無反応です。多分よく知らないのでしょうね。
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今日3月1日は芥川龍之介の誕生日であるとともに久米正雄の命日です。ちなみに芥川の命日7月24日は谷崎潤一郎の誕生日。久米の誕生日11月23日は樋口一葉の命日です。
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武者小路実篤は、人生を暗く考えているらしい若者と会った時「自分は死を考えても悲観許りはしていられないと思うが、そう思えとその人には言えなかった」と書いています。悩んでいる人、辛い思いをしている人に「人生いいこともあるよ」と励ますことが、常に正しいわけではないと実篤から学びました。
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三鷹市の「太宰治展示室」に行ってきました。限られたスペースなのに、予想をはるかに超えるクオリティの高さでした。これをきっかけに、今度こそ太宰治記念館ができることを願います。なお、ささやかな寄贈を申し出たので、いずれ書斎を再現した部屋で、皆さんに手に取っていただけるかもしれません。