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私も妻も年老いた。なのに妻は言う。「一度くらい海外に住んでみたいわ」私は即座に答えた。「何を言ってる、この歳になって」けれど妻は英会話を習い始めた。笑顔が増えた。時が経つほど若返っていくようだ。数年後、妻は旅立った。静かな部屋で今更気づいた。本当は、置いていくなと心が叫んでいた。
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幼馴染とは保育園の頃からずっと一緒だ。家も近いし、小中高も、習い事も、バイト先まで被っている。けれどそれも今年まで。僕は県外の大学に受かったのだ。「妙な偶然の連続もこれまでだな」トランクを引く僕の横で、幼馴染は静かに微笑んだ。「頭はいいのにばかだよね。偶然にしては出来過ぎてるよ」
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「先輩、プロポーズされたんだって。君を一生幸せにするからって。いいなあ」更衣室でうっとりしていた私に、同僚は平坦な口調で言った。「え?別に幸せにしてくれなくても良くない?」なるほど、貴方となら不幸になってもいい、というやつか。それもロマンチックだ。「だって、私は私が幸せにするし」
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今年のクリスマスは彼に会えなかった。「プレゼント、家に届いた。ありがと」夜、遠い地で暮らす彼から電話がきた。少し低いその声を聞いただけで胸が高鳴る。何時間もお喋りをした後、ふいに彼が言った。「会いたいな」思わず口角が上がる。そっけない彼から会いたいなんて言われたのは初めてだった。
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「今週末、買い物付き合ってよ」下校中、君は桜並木の下で言った。いいよと短く返事をする。嬉しさが声にこもらないように。硬い種だと思っていた恋はいつの間にか芽吹いていた。何も与えずとも健やかに育つ。育ってしまう。「彼女に何を贈るか悩んでてさ」枯れる日を待つだけの花が、胸の奥で揺れた。
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「おばあちゃん、なんでお墓の中に行っちゃったの?」緑に囲まれた墓の前。幼い少女が戸惑った顔で立っていた。「長く生きたからね。暮らす場所を変えたのよ」「そうなの?」それでも少女は祖母が恋しかった。少し離れた場所にいた少女の父は、妻の肩を叩いた。「なあ。あの子、誰かと話してないか?」
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しばらくは会えないと言われた。人が少ない改札の前。君の夢を応援したいから、寂しいとは言えなかった。朝、窓はひりつくほど冷たい。今日も君に会えない、けれど。通知には君の名前が並ぶ。超寒いね。朝ごはん失敗した。いつもなら送らない、他愛無い報告。なんだ、なんだ、私、結構好かれてたんだ。
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恋愛感情は数値化できる時代になった。検査施設に髪の毛等を送るだけでいいそうだ。この頃そっけない婚約者の心を探るため、私は彼の髪を検査に出した。結果はすぐに出た。感情における恋の割合はほぼない。けれど愛の割合がほとんどを占めていた。泣きも笑いもできない。私ひとり、まだ恋をしていた。
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話しかけられるのが嫌いだ。六月の雨の中、仏頂面で歩を進めた。都会はいい。誰もが素通りしてくれる。けれど、中には馴れ馴れしく話しかけてくるやつもいた。「傘、忘れたの?」心配そうに声をかけてきたのは、ランドセルを背負った少女。嫌だ。優しい人ばかり私を見つけてしまう。私は、死神なのに。
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『夜九時に、その日あったことを送り合おう』遠い町で暮らす君との、たった一つの約束。退屈な日々を過ごす僕は書くことがない。けれど君は送り続けてくれた。読んだ本のこと。料理に失敗したこと。あの約束を懐かしく思う。今は代わりに声をかける。「今日さ」今度は僕が話そう、写真の中で笑う君へ。
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「遠距離かあ」と彼は嘆いた。「俺、電話かけるのって苦手でさ」嫌な顔はするけれど卒業式の日になっても別れようとは言われなかった。春、私は遠くの町へ引っ越した。彼は本当に電話をかけてこない。その代わり、毎晩「起きてる?」とLINEをくれる。そうすれば私が電話をかけてくると知っているから。
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アプリで知り合った相手にドタキャンされた。女友達にその話をすると、よくあることだよ、と励まされた。「はあ、いつになったら幸せになれるのかな」もうアプリで頑張るのも疲れた。「幸せって案外近くにあるらしいよ」「日々の生活を大切にってこと?」彼女は僕の質問に答えず、深いため息をついた。
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僕は世界一孤独な小学生だった。テレパシーが使えるせいで家族の裏の顔まで知ってしまう上、相談相手もいなくて。だがある日、僕より多くの超能力を持つ人に出会った。僕に似たその人と話すだけで救われた。あれから十年。僕は大人になり家庭を持った。今年生まれた息子はどこか懐かしい顔をしている。
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近頃、冷凍庫を開くたびにアイスが増えている。前まではアイスキャンディーが数本あるだけだったが、昨日と今日はハーゲンダッツが増えていた。ふうと息を吐く。乱雑に置かれたアイスを整理し、買ってきた冷凍食品を隙間に詰めた。ずるい人だな。今夜にでも仲直りしないと、食べ切れなくなってしまう。
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初めてのデートを再現しよう。彼女のアイデアにいいねと返した。当日、僕らは涼しい風が吹く公園を散歩した。二年前に告白した場所に着くと、彼女は急に顔を覆った。「あの頃の気持ちを思い出そうとしたの。でも……」夕日が沈む。僕は今更気づいた。昔と違って手も繋がず、会話もない二人になったと。
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君はいつもそばにいてくれる。雨に追われ、二人で佇む公園の屋根の下。「寒くない?大丈夫?」君はそう言ってパーカーを肩にかけてくれた。自分だって寒いはずなのに。君よりも優しくしてくれる人が、この世界のどこにいるだろう。伏せた睫毛が濡れる。どうして。こんなにも君を、好きになりたいのに。
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「愛する方と愛される方、どっちが幸せだと思う?」学校からの帰り道。燃えるような夕焼けを眺める君に問いかけた。「愛する方かな。なんで?」君は不思議そうにこちらを見た。「別に。聞いてみただけ」お幸せに、と心の中で呟く。本当は前から好きだったと伝えるつもりだった。もし君が後者の人なら。
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「おまたせ」その声に顔を上げると、こちらへ駆け寄ってくる彼女が見えた。今日着ている服は初めて見る。「その服、可愛いね」「ん、何?」雑踏のせいで聞こえなかったのか、彼女は首を傾げた。「可愛いよって」「え?」「だから……」耳を寄せる彼女がニコニコしていて、また騙されたのだと気づいた。
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「食べてください!」押しが強い後輩はぐいぐいとクッキーを押しつけてきた。見た目はまあ悪くない。「変なもの入れてないだろうな?」「まさか!先輩が私に夢中になるおまじないはかけましたが」もう六回も告白を断っているのにまだめげないらしい。一口齧りながら、よく効くおまじないだなと思った。
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もっと一緒にいたいと思って同棲を始めた。デートの後もバイバイしなくて良くて。寝落ち通話をする必要もなくて。二人で買い物をする時間が幸せだ。幸せだった。「ねえ、今日さ」「ごめん。眠いや」君は背を向けて布団をかぶった。静けさが心のヒビに染みる。隣にいるのに、前よりずっと寂しくなった。
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君は世界一わがままな女の子だ。疲れていても構わなきゃ怒るし、安いご飯じゃ満足しない。そんな彼女だが、年をとってから変わった。夜、自分から僕の横に来ようとするのだ。小さな体を引きずって。少し動くのも辛いはずなのに。僕は毎晩祈る。明日も明後日も、愛猫のわがままを聞かせてください、と。
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この子は僕のことを信用しすぎだ。「ねえ、好きになったきっかけとか書いた方が良いかな」クラスメイトは真剣な眼差しでシャーペンを動かしている。「その方が良いんじゃない」ラブレターの添削なんて、絶対向いてないのに。「ごめん、最後の質問」彼女は手を止めた。「あんたの苗字ってどう書くの?」
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たった一言だった。バイトの給料が入った私に彼が言った。「へえ、じゃあ晩ご飯奢ってよ」何食べよっかなと彼は浮かれ顔だ。ヒグラシの鳴き声が夕暮れの町に響く。気にしすぎかな。私はぎこちなく笑った。けれど頭の中はすうっと冷めていく。留学のために働き続けていると、彼も知っているはずなのに。
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「誕生日、何が欲しい?」そう何度も聞いているのに彼は微笑むばかり。「俺が家に帰ったらさ、ニコって笑ってよ」「もう。ちゃんと教えてよ」当日、私は夕方まで店で贈り物を選んでいた。けれどハッと思い出し、家へと駆け出す。彼の家庭環境は複雑で、よく寂しい思いをしたそうだ。特に誕生日の夜は。
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「深く考える前に結婚しなさい」祖母の言葉は極端だけれど、今は分かる気がした。結婚前夜。眠る彼の隣で、心は淡いブルーに染まる。付き合って五年。ときめきは六割減。悪い所も知り尽くした。けれど、彼は夢の中でも私の手を離さない。迷っても進もうと思った。先が見えずとも、彼のそばで歩く道に。