302
妻は考えなしだ。僕が将来のため仕事に励んでいるのに、やれデートだ何だと騒いでばかり。「結婚してから一回も旅行してないよ」「そんなの老後でいいだろ」これは彼女のためでもあるのに。ある夜、妻は家に帰ってこなかった。不運な事故だった。無数の夢を抱えたまま、妻は狭い狭い棺の中で焼かれた。
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「私のどこを好きになったの?」バーで乾杯した後、私はずっと気になっていたことを聞いた。恋愛には興味がないと聞いていた彼に告白された時は正直驚いた。彼は「色々あるけど」と言ってグラスだけが置かれたテーブルに目を向けた。「二人でいる時スマホを全然触らないよね。たぶん、そういうところ」
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サッカー部のスタメンに初めて選ばれた。三年間の集大成となる試合に自分が出られるなんて。「やったじゃん!」仲のいい部活の友達に背中を叩かれた。だけど今は嬉しさを表現できない。「おいおい、もっと喜べって……」できないよ。俺の代わりに落とされたお前が、こんなに、こんなに泣いているのに。
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恋愛が趣味みたいな高校生活だった。放課後も週末も恋人のことで頭がいっぱいで、時間を見つけては会いにいった。宿題をするのも買い物もカラオケも全部一緒。青春の全てだった。「高校時代って何してた?」だからそう聞かれると困ってしまう。「勉強ばっかりしてたよ」新しい恋人に初めて嘘をついた。
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「俺がダメな恋をしてたら、止めてくれる?」小さい頃からよく知っている彼は、海沿いの通学路を歩きながらそう頼んだ。自信がなくていつも迷っている人だった。「はいはい」私は苦笑いした。二十歳の夏、あの約束を果たす時が来た。傷つけたくないけれど、今、親友として伝える。「別れよっか、私達」
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彼は写真を撮る習慣がない。カメラロールの中には書類のコピーが数枚あるだけ。けれどせっかくの旅先だからと撮影を勧めてみた。「何を撮ればいい?」彼はカメラアプリを立ち上げて困った顔をした。「なんでもいいよ。気に入ったものを」分かったと頷き、彼はスマホを構える。「こっち向いて。笑って」
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「好きな人がいる」と君は言った。いつもの世間話みたいに、ふわっと軽い口調で。心が砕かれた夜、君の親友にLINEを送った。しかしそんな話は初めて聞いたという。一体どんな子を。気になって、講義室で隣に座る君のスマホをそっと覗いた。読んでいたのは「興味ない相手を振る方法」という記事だった。
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「一生君を支えるから」昨年旅立った夫からそんなプロポーズを受けたことを思い出した。一人きりの結婚記念日。神経質な私とは違って大らかな人で、すぐに謝るから喧嘩にもならなかった。そして一度も約束を破ったことがない。「君は特別な人だよ」夫がくれた言葉が、泣き虫な私を今も支え続けている。
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よく冷たいと言われる。確かに僕は物事を合理的に考える方だ。大学時代に後輩からの告白を受け入れたのも、単に断る理由がなかったから。それでも交際は長く続いた。恋人が不慮の事故に遭うまでずっと。僕は考えた。人と人とはいずれ別れる。それが少し早かっただけだ。そう解釈しながら僕は号泣した。
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言えなかった。花火を見にいこうと、何度も練習したのに。放課後、君は廊下で他の子に誘われていた。「週末の花火大会、一緒にいこ?」「いいよ」ああ駄目なんだ。一途なだけでは。土曜の夜、部屋の隅で膝を抱えた。真っ黒なヘッドホンで耳を塞ぐ。大好きな花火の音が、泣きたくなるほどうるさかった。
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好きな人に彼女ができた。「ねえ、なんであの子と付き合ったの?」雨の日の昼休み。廊下で二人になった瞬間、我慢できずにそう聞いた。プリントを抱えた君は照れもせずに答えた。「そりゃ、告白されたからだよ。他に理由がいる?」本当のことは言えなかった。いるに決まってる、だって私が報われない。
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消えたい。全てから逃げ出したい。そう願った夜、家で一本の映画を見た。「生きるのが嫌になった時でも絶対に前を向ける」と友達が太鼓判を捺していた映画。感動の結末には思わず涙した。けれど、いや、だからこそ見終わった後は夜風に当たりたくなった。この映画を見ようとも思わない人生が良かった。
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この世を去る時、最後に恋をした人が魂を導いてくれるらしい。事故に遭った私は手術の前に呼吸が止まった。光のかたちをした魂が、身体からすうっと抜けていく。見渡せば青く晴れた空。私は街を見下ろして、ぽたぽたと涙を落としながら歩いた。たったひとりで。よかった、あの人はまだ生きてるんだわ。
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彼女はピアノを弾く時だけお揃いの指輪を外す。日曜日、クーラーが効いたリビングまで音の波が寄せていた。彼女が演奏を始めたようだ。僕はそっとピアノのある部屋に近づき、その姿を見守った。少しだけ妬ける。銀色の指輪を外した白く細い指は、あの美しい楽器と透明な糸で結ばれているように見えた。
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彼女が結婚式を挙げたがっている。反対だ、たった一日のために大金を払うなんて。年末年始、喧嘩したまま実家に戻った。話を聞いた祖母は仏壇の方を向いて言う。「挙げてもいいと思うけどね」世間体が、という話だろう。でも僕は気にしない。「私みたいに、一回の式を百回くらい思い返す人もいるから」
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妻は恋愛小説家だ。けれど、彼女の本は少しも読んだことがなかった。私が死ぬ前には読んでね、と言われていたのに、彼女は先に亡くなってしまった。妻の死後、僕は初めて本を手にとり、そして泣いた。どの本にも僕と似た人物が頻繁に登場する。僕はいつも、愛よりも孤独を与える人として描かれていた。
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推しが好きすぎてつらい。布団カバーまで推しの色に染まった部屋の中で頭を抱えた。天国のようなイベントと、地獄のようなクレカの明細。一刻も早く慣れるか飽きるかしなければ。そう決意して疲れるまで推し活に励んだ。それから半年。月末に澄んだ青空を見上げた。困った。更に愛が深まってしまった。
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高校生になったら彼氏ができると思っていた。朝、制服のリボンを整えながらため息をつく。学校帰りにデートをしたり。好きな漫画の貸し借りをしたり。そんな未来を夢見たまま、今日、卒業式を迎える。それなりに楽しい高校生活だった。けれど漫画とは何もかも違う。三年間、好きな人すらできなかった。
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私ばっかり浮かれてる。「三ヶ月記念とか祝うの面倒だよな」彼の言葉は質問というより断定で。放課後、一人で教室を出た。「記念日なのに二人で帰んないの?」廊下で声をかけられた。隣のクラスの、先月私に告白してきた人。「祝うの面倒だって」「え?冷たいね」無言で歩いた。天秤が傾かないように。
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好きな人からラブレターをもらった。放課後、校舎裏で二人きり。「どうして僕に?」「優しくて、頼りになるから……」話すたび、彼女の頬はどんどん紅潮していく。嘘や冗談じゃない。本当に好きなんだ。ラブレターを鞄に入れ、僕は学校を出た。明日友達に会ったら一番に話そう。これ、お前のだよって。
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君は勘違いをしている。「ほんと優しいよね。天使みたい」手を繋いで歩く真冬の帰り道。君は呟くように言った。確かに刺々しいタイプではないと自分でも思う。けれど黙って首を横に振った。これは謙遜ではない。繋いだ手に力を込めた。この笑顔を曇らせるものがあれば、きっとどこまでも冷徹になれる。
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「貴方の死因になりたいわ」熱い溜め息をついて彼女は呟く。月夜、刃物でも握ってくるかと思ったらそうではない。こんな命、別にくれてやっても良かったが。世話好きで、つまらない話にも笑う、親切で損ばかりする人だった。だからうっかり長生きした。こんな歳になって死ぬのは、まったく君のせいだ。
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結婚するらしい。独身のままがいいと言っていた元彼が、唐突に。「相手は?」「同僚」「へえ」電話をするのは二年ぶり。雨の夜に私達は別れた。彼に結婚願望がなかったから。だから何故と聞きたくなってしまう。けれど聞かずに電話を切った。分かっている。彼は確かに結婚したくなかったのだ、私とは。