人間に化ける妖怪がいる。その事実は有名だが、長く化けていると元の姿へ戻れなくなることは案外知られていない。人の形をした妖怪の子は人の形を持って生まれる。妖怪である自覚もなく、本当の姿も知らないままで。だが多感な時期には「自分は人間のふりをしているだけだ」と感じることもあるそうだ。
「スタバの新作飲みにいこうよ」ソファで本を読む彼の肩に触れた。「え、今から出掛けんの?」彼は眉間に皺を寄せた。窓の外は既に薄暗く、しかも彼は私と違い流行に対する興味が全くない。最初はそんな人と付き合っていけるか不安だった。「なんでニヤニヤしてんの」彼はコートを羽織りながら言った。
掴み所のない人だった。嘘と冗談が好きな君は一瞬の風のようだ。けれど気が合って交際を始めた。君が「好きだよ」と言って私が「嘘つき」と返す悪戯な日々。そんな君が、手を繋いで海辺を歩いた夜に「死ぬなら今がいいな」と呟いた。その時だけは「嘘つき」と言わなかった。私も同じことを考えていた。
君はおやすみ、と言ってから必ず私の手を握る。大喧嘩をしていたとしても。時々、おやすみの前に大好きだよと抱きしめてくれることもある。そんな時、私は無性に泣きたくなってしまう。恋人ではいられなくなっても、他の誰かを好きになっても、きっと君の手の温かさだけは忘れられないと気づいていた。
夜の街を駆けた。大好きな人に会うために。あと五分もすれば着くはずだ。すれ違う人は不思議そうな目でこちらを見ていた。無理もない。真冬なのに汗だくなのだ。会いたい。いつも会いたいと思っているけれど、今日は特別だ。ただ「愛してるよ」と伝えたい。だから神様、まだあの人を連れていかないで。
『ごめん、他の用事ができちゃった』待ち合わせの直前にそんな連絡が来た。勇気を出してやっと食事に誘えた人からだった。『気にしないでください』と返事をして電車を降りる。それ以上の連絡はなかった。丁寧に編んだ髪の毛の一本一本が虚しい。『また別の日に』と送りたいのは私だけなのだ、きっと。
「声聞いたら安心した」恋人は電話の向こうでふふっと笑った。それから「今夜はよく眠れそう」と付け加えた。涼しい風が吹く月夜だった。遠距離恋愛を始めてしばらく経つ。恋人の言葉が嬉しかったのに、すぐにはそうだねと頷けなかった。声を聞いたからこそ会えない寂しさが溢れそうだとは言えなくて。
「ねえ、私って重い?」メッセージを送るのも、嫉妬するのも私ばかり。彼はやや気まずそうに答えた。「うーん、この頃受け止められるか不安になることはあるかも」やっぱりそうなんだ。私は絞り出すように言った。「こんな彼女……嫌だよね」彼はエッと驚く。「体重のことでそこまで思い詰めてたの?」
静かな夜だった。『お疲れさま。寝る前にちょっと話さない?』勇気を出して彼にメッセージを送る。三十分経っても返事は来ない。忘れた頃に通知音が鳴った。『ごめん。今日は疲れてるから無理』寂しさを飲み込んでスタンプを返す。彼は悪くない。疲れている時こそ話したいと思う私とは違うってだけで。
君が告白の返事を迷っていたから、つい言ってしまった。「付き合ってください。一週間でいいから」期間限定でも幸せだった。何度も作り直したクッキーを君が美味しいと喜んでくれて。寝る前にはおやすみと送り合って。それでも最終日は来る。「もう無理」君は頭を抱えた。「こんなん、好きになるやろ」
過去なんて気にしないと決めていた。けれど付き合ってから初めて行くデートの予定を考えるだけで心が折れそうだ。「どこに行きたい?」雑誌のデートスポット特集を見せると恋人は曖昧な表情を浮かべた。どこも去年行ったばかりだそうだ。都内の水族館も。箱根の温泉宿も。密かに憧れていた場所は全部。
今夜、大好きな君に告白する。学習机にノートを開き、伝えたい言葉を並べた。好きです。一緒にいると楽しくて……。思い出が溢れる。漫画の貸し借りをした。何度も君の相談に乗った。ペンを置いた時、君からLINEがきた。『元彼とよりを戻せたよ』落ちた涙で字が滲む。ああ、君からの相談を受けすぎた。
友達には戻れなかった。べつに、ひどい別れ方をした訳ではなかったけれど。「……あ」久々にすれ違った君は気まずそうな顔。廊下はしんとしていた。「なんだ、元気そうじゃん」わざと茶化すように言い残して駆けた。角を曲がり、階段をおりて、おりて、涙をふいた。戻れないや、君はあまりにも特別で。
「好きだけど付き合えない」と君は言った。僕らはまだ学生だった。「貴方にはもっと素敵な人が現れると思う」その言葉通り、眩い人々に出会ってきた。群衆の目を引く美しい人。深く豊かな教養のある人。けれどあの言葉は半分不正解だった。振り返っても、欠点を知る君の隣ほど、愛しい場所はなかった。
「ここは人生のセーブポイントです。セーブしますか?」彼女は大切な話をする直前、必ずそう質問する。断る理由もないので僕は「はい」と答えてきた。ある夜、僕は彼女の質問を真似して「セーブしますか?」と聞いてみた。彼女は「いいえ」と答えた。それから迷いなく僕が差し出した指輪を受け取った。
「生まれ変わっても夫婦になろう」はい、と頷く君の涙が頬に落ちた。時代は移り変わり、春。僕はまた人として生まれた。前世の記憶を残したまま。だがこの時代の君は僕のことを忘れていた。想いの差だろうか。それでも惹かれ合いやがて夫婦になった。年老いた君が病床で僕に言う。「来世はまた夫婦に」
好きだと告げた日から、二人きりでは話せなくなった。「おはよう」「……はよ」朝、廊下で見かけた君はスッと目を逸らし、去っていった。避けられている。あの日から徹底的に。遠ざかる後ろ姿を見つめるだけで喉の奥が苦しくなる。君と話す時間が好きだった。苦しくても、一番の友達でいればよかった。
幸せになってね、と妻は言った。それが最期の言葉になった。笑顔の写真をそっと撫でる。儚げな見た目とは違い、随分勝ち気な性格だった。結婚する前も後も、目が回るほど振り回された。器用な僕はなんだかんだで君の願いを叶えてきたけれど。教えてくれ。どうやって幸せになればいい。君がいないのに。
想い人から飲みに誘われた。普段より酔っているせいか雰囲気も甘い。互いの視線が絡み合い、やがて向こうが目を逸らした。「告白されるかと思った」冗談めかして言ったのに「しないよ」と真面目に返事をされた。「どんな計算だってできそうなくらい頭が冴えている時の君に、イエスって言われたいから」
なかなか電話を切れないふたりだった。「そっちが切ってよ」「そっちこそ」そんなやり取りで笑い合う夜が好きだった。けれど季節が過ぎれば大人になる。講義室で眠そうにしていた君は、いつの間にか変わっていた。「今までありがとう」最後の電話だった。君はもう、こんなにあっさり電話を切れるんだ。
キッチンから鼻歌が聞こえてきた。彼が気分よく料理をしているようだ。音程があやふやな今年のヒットソング。あまり流行りの音楽を聴く方ではないのに、珍しいこともあるものだ。私がクスクス笑っていると「笑うなよ」と言って歌を中断してしまった。中途半端に覚えちゃったのかな、私がよく歌うから。
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彼氏は友達から不評だ。将来やりたいこともなく、結婚する気もないらしい。「こんなやつ彼氏で大丈夫?」「自分で言うなし」不真面目な態度が原因で何度も喧嘩をした。春、そんな彼は突然病室で亡くなった。残された手紙には「本当はずっと一緒にいようって言いたかった」と震える文字で書かれていた。
二十歳になった。尊敬するミュージシャンは、同い年で大ヒット曲をリリースしている。だけど僕は趣味も勉強も中途半端な凡人のまま。ネットで二十歳から音楽を始めた有名人のインタビューを見て気持ちを落ち着かせた。あれから十年。三十歳になった僕は、仕事の休憩時間に遅咲きの天才について調べた。