彼女が家に来た。風邪で寝込んでいる僕を心配してくれたようだ。「有り合わせのもので何か作るね」台所へ行く彼女を、水だけでいいと呼び止めた。けれどその顔は不服そうだ。「私の料理、そんなに嫌?」何が不満だと詰め寄る彼女に僕は仕方なく打ち明けた。うちには今、ビールとたけのこの里しかない。
好きな人からラブレターをもらった。放課後、校舎裏で二人きり。「どうして僕に?」「優しくて、頼りになるから……」話すたび、彼女の頬はどんどん紅潮していく。嘘や冗談じゃない。本当に好きなんだ。ラブレターを鞄に入れ、僕は学校を出た。明日友達に会ったら一番に話そう。これ、お前のだよって。
「どうすれば恋人になれると思う?」親友の家でお菓子をむさぼりながら聞いた。おめーそれ俺のだぞ、と怒られたがいつものことだ。「とりあえず近づくこと。心を開かせろ」恋愛経験豊富な彼の助言は参考になる。「なるほど。でもどうやって?」彼は私の前にジュースを置いた。「まず親友になるんだよ」
教授は急に掌を見せた。「君達はこれが何に見えますか」しんとなる講義室。皆思っていた。ただの手だ。教授は続ける。「ある人は数字を思い浮かべる。細胞の集まりや指文字に見える人もいます」その後、黒板に書いたのは『学ぶとは』という言葉。あの授業を今も思い出す。私に世界はどう見えているか。
結婚する前に聞きたいことがある。私は彼と向かい合った。「子供のことだけど……」彼は目を伏せた。やはり、子供は望まないのだろうか。「怖いんだ、どうしても」「父親になるのが?」彼は首を横に振った。「俺の誕生日が、母さんの命日なんだ」私は人生で一番泣いた。彼の苦しみを何も知らなかった。
夕暮れの事故が妻の命を奪った。あれから半年。家に帰るたびに涙した夜をこえ、前を向こう、と思い始めた十二月。会社から書類の訂正を求められた。僕は狼狽えて聞いた。「配偶者の有無、無にマルですか?」担当者は頷いた。指先が震える。妻はプロポーズを泣いて喜んだのに。僕の妻は、あの人なのに。
口うるさい彼女と別れた。荷物も片付いて、今日からこの部屋は僕の城だ。西日が差すワンルーム。久々に袋麺を開けた。ぐつぐつ煮える鍋を本の上に乗せ、そのまま食べる。自由だ。僕は箸をとめた。別れてからもムカつく彼女だ。「お皿使いなって」と呆れる顔を、あと何度思い出せば泣かずに済むんだよ。
彼女と別れそう、と君が言った。私って性格悪い。嬉しいと思ってしまった。いつか振り向くかな。面倒だけど髪を伸ばした。趣味じゃない服装も、君の好みだからいつも身に纏った。ずるいけど本気の恋。桜が散る頃、君はそのまま結婚した。式場の隅では、見た目だけ君好みの私が、俯いて拍手をしていた。
忘れられない言葉がある。傷つき、全てを失った私に友人が言った。「ここにいていいんだよ」それは優しくて、強い言葉だった。後になって思い知った。「ここ」を持つ人でなければ言えない。人を支える力がないと言えない。生きようと思った。いつか大切な人を、優しいだけではない言葉で救えるように。
三年付き合った人と友達に戻った。ふしぎ、昔より仲良くなった気がする。しばらくしていなかった映画の話、漫画の話、今日流れてきたニュースのこと。トーク履歴が踊るようにぽんぽん増えていく。だけど夏がくる頃、君からの連絡はぴったりやんだ。淡い痛みが胸を刺す。きっと、新しい恋をしたんだね。
「別れたい時は一ヶ月以上前に報告してね」「会社かよ」変な彼女だ。心の準備が要るらしい。笑い飛ばしていたのに、他に好きな人ができてしまった。二年目の冬。別れようと言ってから、僕らは懐かしい場所を巡った。大切な話もした。一ヶ月後、彼女はさよならと手を振った。僕とは違い吹っ切れた顔で。
彼が前の恋人に送った言葉が目に入ってしまった。「今が人生で一番幸せ」送信日は二年前。添えられた写真の中の海は宝石のように輝いていた。私はたまらず聞いた。「ねえ、人生で一番幸せだったのって、いつ?」本を読んでいた彼は答えた。「さあ。いつかな」私は悟った。彼の目は今、過去を見ている。
たった一言だった。バイトの給料が入った私に彼が言った。「へえ、じゃあ晩ご飯奢ってよ」何食べよっかなと彼は浮かれ顔だ。ヒグラシの鳴き声が夕暮れの町に響く。気にしすぎかな。私はぎこちなく笑った。けれど頭の中はすうっと冷めていく。留学のために働き続けていると、彼も知っているはずなのに。
揺れるバスの一番後ろで、僕らは最後まで無言だった。肩が触れる距離にいたのに。君は部活終わりまで待ってくれたのに。頭の中だけがうるさくて、僕は途方もなく不器用だった。いや、不器用なまま大人になった。君もあの頃、本当は話したいことがあったのだろうか。僕は気になって助手席の妻に聞いた。
「私ね、付き合った記念日にはいつも地元の遊園地に行くの」そう話す友人は、来週記念日を迎えるらしい。買い物中も幸せそうだった。「いいね。でも、いつも同じところだと飽きない?」「ううん、飽きないよ」なるほど、それが恋か。一人納得していると、友人は続けた。「同じ人と行くわけじゃないし」
同棲中の彼はほとんど家事をしない。ありがとうと一言伝えてくれるならまだしも、それすらない。脱ぎっぱなしの服を見てため息が出た。離れるべきか。そんな時、偶然SNSで彼の裏アカを見つけた。「いつも彼女が家事やってくれてて感謝」それを見て私は決心した。別れよう。私に言わなきゃ意味がない。
「おばあちゃん、なんでお墓の中に行っちゃったの?」緑に囲まれた墓の前。幼い少女が戸惑った顔で立っていた。「長く生きたからね。暮らす場所を変えたのよ」「そうなの?」それでも少女は祖母が恋しかった。少し離れた場所にいた少女の父は、妻の肩を叩いた。「なあ。あの子、誰かと話してないか?」
五年前に別れた人とお茶をした。また恋が始まったら、と想像しない訳ではなかった。「注文しておいたよ」喫茶店に遅れて入ると、君は奥の席にいた。相変わらず気が利く。運ばれたのは桃の紅茶とケーキだった。ふいに切なくなる。やはり私達は終わったのだ。あの頃は甘いものが好きだった、今と違って。
彼は一人でいるのが好きだ。こちらが寂しくなるほど。そんな彼だが、大学の図書館で私を見かけると、毎度隣の席にスッと座ってくる。隣に座るメリットはないはずなのに。図書館は私語禁止でお互い本を読むだけ。私の胸がいっぱいになるのはそんな時だった。彼は私の隣を選ぶ。周りの席が空いていても。
「昇進したんだって?」モニターの向こうから同期達がひょいと顔を出した。まあね、と頷けば皆悪戯っぽく笑う。「今夜は奢りな!」大して昇給しないというのに、ハイエナのような連中だ。夜、食べたいとせがまれたのは豪奢なフレンチ。支払いをしようとすると、スタッフは言った。「もうお済みですが」
のんびりするのが好きだ。恋をしろ、成長しろと急かす世界はどうも苦手。晴れた日、ふかふかの布団で、一度きりの夏ってやつを贅沢に溶かして、漫画を読むのがいいのだ。りんと通知音がする。教師である友人からだった。医者から勧められたが、休養とはどうすればいいかと聞かれた。今日は私が先生だ。
「彼、髪を乾かすのが上手いんだ」初夏、大学の友人はポニーテールを爽やかに揺らした。「私の髪も、彼がやった方がはやく乾くの」学生で混んだカフェテリアの中、恋する彼女の笑顔はパッと輝く。「すごいね。器用なんだろうね」一口飲んだコーヒーは苦かった。すごいね。私といた頃は下手だったのに。
「花は恋に似てるよね。いつか散る」この頃浮かない顔の妹は言った。硝子の花瓶を抱えて。「凡庸な発想だなあ。ドライフラワーにできるのに。手を入れないから散るんだ」僕の答えに、妹はいつもの表情をした。兄はこれだから困るといった顔だ。「この世界にはね、ドライフラワーに向かない花もあるの」