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結婚して五年。記念日の夜、子供達が眠った後に二人だけで乾杯した。「もう恋愛感情とかドキドキとかはないけど、お互いほのかな愛情を感じるようになったよね」妻は結婚指輪をそっと撫でて言った。嘘はつきたくなくて曖昧に笑った。そうだね、としみじみ頷けたらよかった。僕だけがまだ恋をしていた。
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席替えの後、好きな子の横顔が遠くなった。今朝までは隣同士だったのに。明るくお喋りで、休み時間のたびに話しかけてくれるから嬉しかった。ふと窓際の席に座るあの子の方を見ると、こちらの視線に気づき小さく手を振ってくれた。なぜだかそれが、今までのどのやりとりよりも強く胸をキュッとさせた。
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「好きだよ」と言ってくれないところ以外全部好きだった。まめに連絡をくれて、私に触れる手はいつも優しくて、笑顔が可愛くて。友人からは愛されてるねと言われる。けれど夜が来るたびに涙が溢れた。悲しいのではなく情けなかった。言葉しか信じない自分を変えられない。ずっと大切にされているのに。
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いつも明るい友人がどうも苦手だった。何をしても「楽しい」とはしゃぎ、どんな映画を見ても「感動した」と泣く。流されやすくて浅いやつだなんて考えていた。けれど大人になって気づいた。あいつ以外、自分も周りも居酒屋で愚痴ばかり。暗い帰り道で思う。こんなに簡単なんだな、気難しくなるのって。
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「一生君を支えるから」昨年旅立った夫からそんなプロポーズを受けたことを思い出した。一人きりの結婚記念日。神経質な私とは違って大らかな人で、すぐに謝るから喧嘩にもならなかった。そして一度も約束を破ったことがない。「君は特別な人だよ」夫がくれた言葉が、泣き虫な私を今も支え続けている。
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夢に好きな人が出てきた。冬の遊園地で手を繋いで、輝くイルミネーションを見た。吐く息が白いってだけでなんだか面白くて、二人で何度も空気を真白に染めた。幸せだった。年の差なんて気にならないくらいに。一人の部屋で目が覚めると好きな人に会いたくなった。今はもう夢の中でしか会えないけれど。
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大好きな彼女に振られた。不器用な自分なりに大切にしていたのに。長い髪を揺らしながら遠ざかる後ろ姿に「どうして」と問いかけた。涙で潤んだ目が僕を真っ直ぐに見る。「あなたは優しくて、しっかり者で、欠点がなくて」「だったらなんで」曇り空から雨粒が落ちた。「だから疲れちゃった。ごめんね」
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過去なんて気にしないと決めていた。けれど付き合ってから初めて行くデートの予定を考えるだけで心が折れそうだ。「どこに行きたい?」雑誌のデートスポット特集を見せると恋人は曖昧な表情を浮かべた。どこも去年行ったばかりだそうだ。都内の水族館も。箱根の温泉宿も。密かに憧れていた場所は全部。
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彼とスーパーに行った。昔は二人で買い物というだけで心躍ったが、今ではこれが日常だ。無口な彼は必要なものを淡々とカゴに入れていく。「他に買うものある?」いや、と答えると彼はすぐレジに並んだ。分かりにくいがかなり好かれていると思う。カゴの中には知らぬ間に私の好きなお菓子が入っていた。
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長年片思いしていた人のアイコンが変わっていた。幸せそうな二人が花畑の中で微笑み合っている。タイムラインをスクロールする手を止め、アイコンをじっと見つめた。優しいな。私が描いた絵をアイコンにしてくれるなんて。喜べと自分に言い聞かせる。結婚式のウェルカムボード用に依頼された絵だった。
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スマートグラスに「ミュート」機能が追加された。ボタン一つで嫌いな人を視界から消せるというものだ。生活上必要な時だけ相手が表示される仕様で、ストレスが減ると評判だ。そんなある日、駅でスーツ姿の人から肩を叩かれた。「あなたは百人以上からミュートされました。別区画で暮らしてもらいます」
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『ごめん、他の用事ができちゃった』待ち合わせの直前にそんな連絡が来た。勇気を出してやっと食事に誘えた人からだった。『気にしないでください』と返事をして電車を降りる。それ以上の連絡はなかった。丁寧に編んだ髪の毛の一本一本が虚しい。『また別の日に』と送りたいのは私だけなのだ、きっと。
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「いつか結婚してさ、家族で幸せに暮らしたいね」「そうだねぇ」学生時代、僕らはよく未来の話をした。夜風が吹く並木道で手を繋ぎながら。今は全てが懐かしい。大人になって僕らは夢を叶えた。「今、幸せだなぁ」「僕もそう思う」同窓会で思い出話をした。僕と君にはそれぞれ新しい家族ができていた。
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ドラマみたいな出会いじゃなかった。絵になる二人の夕暮れもなかった。けれど誤解されやすい私を「真っ直ぐで素直な人だ」と言ってくれた君の横顔が心を射抜いてしまった。共通点は少なくてちぐはぐな私達。だけどいつの間にか私の言葉も君の心を揺らしたのかもしれない。だって君は今日もそばにいる。
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「忘れ物した」君からのメッセージで二ヶ月ぶりに会うことになった。僕の家まで来ると言うから掃除をした。きっとすぐ帰るだろうに。肌寒い夜、君は予告通り家を訪ねてきた。小さな飾りがついたヘアピンを渡す。君は何か言いたげな顔で帰っていった。「このためだけに来たの?」と聞けない僕を残して。
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休み時間にどれだけ語り合っても話が尽きない友人だった。だから余計に焦ってしまう。この頃二人で会っても話が続かないことに。「友人は服と同じ。いつの間にか合わなくなる」とよく聞く。けれど思い出が眩しくて前を向けない。大好きな服がもう合わないと気づいた朝の冷たさに、喉の奥がひりついた。
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運命の人が誰かと聞かれたら、私は君だと答える。雪解けの頃に出会った人。気難しい私に愛される喜びを教えてくれた。あれから花も海も輝いて見えて、命ってものがいっそう尊く感じた。私の人生には優しくてずるい君が必要だ。だから何度生まれ変わっても君に恋をして、そのたびに別れを選ぶんだろう。
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メイクを変えてから「綺麗になったね」と言われるようになった。朝、鏡に映る自分を見つめる。妙な気分だ。洗顔直後の顔は昔と変わっていない。「この頃綺麗って褒められるけど、変だよね」同棲中の恋人は私の言葉に頷いた。「ほんと。何言ってんだろうね」恋人は続けて言った。「前から綺麗なのにね」
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好きなことを仕事にした。生活は苦しい。好きだったことがどんどん嫌いになって、自分を見失いそうで。あの頃の自分に戻りたくて仕事を辞めた。そうだ、また趣味として楽しめばいい。けれど何を見てもちっとも面白くない。ああ、だったら嫌いなまま「好きだったこと」を続けていれば良かっただろうか。
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夜の公園から秋の匂いがした。「告白の言葉が何だったか覚えてる?」散歩中、君は私の質問にすまし顔で答えた。「俺んとこ来いよ、だろ。懐かしいな」「あはは。嘘ばっかり」隣を歩く君は呆れるほどの自信家だ。だから忘れてあげない。一年前の君が「恋人になってください」と震える声で言ったことを。
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昔付き合っていた人の投稿が流れてきた。たった今弾き語りの配信を始めたらしい。興味本位で配信を覗いてみる。閲覧者は一人だけのようだ。誰が見ているかはバレないはずなのに緊張した。「お、一人来た」君は嬉しそうに歌い始めた。懐かしい曲だった。サビだけ一緒に歌った。誰にも知られないままで。
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ラブレターの代筆をした。手紙で告白したいが文章に自信がないという友人のため、便箋三枚を文字で埋めた。本当は代筆なんて良くないかもしれない。けれど家族と同じくらい大切な友人だから断れなかった。告白は成功。「一途な思いが伝わった」と言われたらしい。当然だ、私も同じ人を想っているから。
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「次付き合う子が初めての彼女ってことにしてほしい」親友はそう言って頭を下げた。聞けば、好きな子に「人生で初めて好きになったのが君だ」と伝えたらしい。呆れる。確かに自分らが手を組めばバレないだろうが。今、親友の隣で新しい彼女が微笑んでいる。彼が私と付き合っていたとは知らないままで。
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「人の心が理解できないロボットなんて古いですよ」科学者である彼女は僕の家でSF映画を見ながら笑った。「むしろ人間より上手く感情を汲みます」僕は思わずヒヤリとした。彼女が断言するのだから事実なのだろう。「だから困るんです。好意を向けられると」彼女は腕に挿していた充電ケーブルを抜いた。