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「父にあなたのことを話したの」彼女は夕食の席でそう告げた。思わず唾を飲み込む。彼女の父は厳格な人だと聞いた。日の目を見ないバンド活動を続ける僕との交際には反対するだろう。「なんて言ってた?」「今のままでは認められないそうよ」そうだろう、と頷く。「サビのキャッチーさが足りないって」
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あっさり振られた。「部活と勉強が忙しくて……」ユニフォームを着た君は申し訳なさそうに去っていった。けれど、その背中を恨むことはできなかった。正直な君を好きになったから。その後、クラスメイトから君に恋人ができたと聞いた。ちゃんと嫌いになれそうだ。そっか、君は一週間で暇になるんだね。
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今日のために可愛い洋服を買い揃えた。動画でヘアアレンジの練習をして、だけど君はスマホを見たまま。「一言くらい褒めてよ」「簡単に褒めないのが俺らしさだから」いつもなら仕方ないな、と諦めるけれど今日は泣きそうだった。らしさが大事なら、褒められたいっていう私らしい感情を無視しないでよ。
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浴衣を着るのは久しぶり。鏡に映る私はいつもより少し大人びて見えた。スマホを手にとり君とのチャット履歴を確認する。待ち合わせは今日の夕方、花火大会の会場前。どんな顔をしていけばいいだろう。君から来た最後のメッセージがくすぐったい。『会場前に来てください。もしも告白への返事がOKなら』
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努力は実るって言葉が嫌いだ。それを言った部活の顧問も。夏、努力した僕らは初戦で負けた。虚しいほどの大差で。「努力は実るなんて嘘ですね」それは幼い八つ当たりだった。顧問の先生は答えた。「ごめんな。信じさせてあげたかった」その涙を見て、僕はなぜか、試合に負けた時よりずっと悔しかった。
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一目惚れした君からの告白を断った。大学一年の夏。「君に僕はもったいないよ……」君は大きな目に涙をため「なんで」と声を震わせた。言えない。美人で完璧な君じゃなくて、普通の子と付き合いたいなんて。そんな君を町で見かけたのは就職後のこと。少し疲れたスーツ姿の君は、普通の社会人に見えた。
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キッチンから鼻歌が聞こえてきた。彼が気分よく料理をしているようだ。音程があやふやな今年のヒットソング。あまり流行りの音楽を聴く方ではないのに、珍しいこともあるものだ。私がクスクス笑っていると「笑うなよ」と言って歌を中断してしまった。中途半端に覚えちゃったのかな、私がよく歌うから。
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「テストの点数高かった方がアイス奢りね」テスト前、隣の席の君は対決を申し込んできた。「アイスでいいの?最近冷えるけど」教室の窓から入ってくる風は仄かに金木犀の香りがした。「じゃあお菓子で」ニッと笑う君が、点数で勝つことよりも二人きりの帰り道を望んでいればいいのに。僕と同じように。
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「俺が先に死んだら新しい人を見つけてよ」夕陽が差し込む部屋で彼がボソッと言った。すぐには返事ができず、ただその横顔を見ていた。「他の人にとられてもいいんだね」そっちもね、と頷けない子供っぽい自分が嫌になる。そんな私の手を強く握り、彼は困った顔で笑った。「嫉妬しないとは言ってない」
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寝ようとした時、玄関の扉が開く音がした。彼が帰宅したようだ。「もう寝た?」小声で問いつつ、私のいる寝室に入ってきた。その時ふとひらめく。寝たフリをして、急に起き上がり驚かせてみよう。よし行くぞ、三、二、一。刹那、私は動きを止めた。彼は私の薬指に、糸のようなものをそっと巻いていた。
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「ネックレスつけてる?」昼休み、彼女からそう聞かれて冷や汗が出た。制服の下につけようと約束したお揃いのネックレス。毎日つけるのは面倒で、今日は家に置いたままだ。「ごめん……最近つけてなくて」正直に告白すると、彼女は「私も」と笑った。そのシャツの襟からは銀色のチェーンが覗いていた。
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「せーのでお互いトーク履歴消そうよ」別れ話の後、君からそう提案された。履歴が残ると恋しくなるから、だそうだ。「もう昨日消しちゃった」「ちょ、容赦なさすぎ!」夕方のカフェでげらげら笑う。こんな時でさえふざけた会話ができる君を好きになって、けれどそればかりだったから別れた二人だった。
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今夜人生が変わるかもしれない。彼がレストランの予約をしてくれたらしい。記念日にだってそんなことしない人なのに。「お洒落してきてね」そう微笑まれてワンピースを新調した。ねえ、どんな顔で待ち合わせに行けばいい?目の前の店は、ここでプロポーズされたいと、付き合う前に私が話したところだ。
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夜道を歩く女性の後ろに幽霊が見えた。号泣する彼女を心配そうに見守っている。「大丈夫ですか」気になって声をかけた。彼女は言った。「すみません、恋人を亡くしたばかりで」後ろの幽霊は自分を指差す。きっとそばにいますと伝えようとした時、幽霊は人差し指を唇に当てた。次に進んでほしいそうだ。
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「手、握ってもいい?こわい……」肝試しでペアになった君は、不安そうな顔で言った。その様子に僕はちょっと驚いた。「意外。前にホラー映画が大好きだって言ってなかった?」うるうるしていた君の目が泳ぎだす。「そ、その話したっけ」懐中電灯だけで照らす夜の道は静か。僕は黙って君の手を握った。
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「ここは人生のセーブポイントです。セーブしますか?」彼女は大切な話をする直前、必ずそう質問する。断る理由もないので僕は「はい」と答えてきた。ある夜、僕は彼女の質問を真似して「セーブしますか?」と聞いてみた。彼女は「いいえ」と答えた。それから迷いなく僕が差し出した指輪を受け取った。
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かわいい、と言われた。家族以外の人から初めて言われた。普段下ろしている髪を結んだ夏の日に、廊下でばったり会った君から褒められた。時が止まった気がした。嬉しくて、でも少しだけ情けなくて。私は貰った言葉を宝物にして生きてしまう。君は明るくて、他の子にも同じことを簡単に言える人なのに。
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私の中には二つの人格がある。子供の頃からもう一人の私とは日記帳でやりとりをしていた。案外仲は悪くない。けれど働き始めてから『やっぱり一人として生きていかない?』と提案された。いつかこんな日がくると思っていたが、友人を失うようで少し寂しい。『いいよ』と書くと、意識が遠のいていった。
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カップル専用アプリが入っていた。付き合いたての彼のスマホに。クールに見えるのに、元カノとはこれで楽しんでいたのか。暗い嫉妬に心が染まる。「このアプリさあ」私の指先を見て彼は動揺していた。「そ、それはっ」タップすると、私の名前が。先週入れたばかりらしい、二人の記念日を記録したくて。
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「男女の友情って成立すると思う?」大きな入道雲の下を自転車で駆ける夏。隣で汗を垂らす幼馴染は、だるそうな目でハンドルを握っていた。「そりゃ、成立するだろ。俺とお前がそうじゃん」朝早くから耳を刺す蝉時雨。自転車は進む。「だね。私もそう思う」私はいつものように、大きな声で嘘をついた。
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私が好きになってしまった人は、省エネ人間だった。走っている姿を見たことがない。雨の日は外に出ないし、飲み会もさっさと帰る。そんな君を、土砂降りの雨の中、駅前で何時間も待たせる人がいる。「ごめんね。会議が長引いて」君はいいよ、と笑って私を迎えた。ああ、こんなの、好きになってしまう。
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「ねえ、私のこと好き?」焼酎で酔った彼女はソファで横になりながら言った。僕はもちろん、と返事をした。しかし彼女は質問をやめない。「料理下手なのに?」「うん」「がさつなのに?」「うん」彼女は真顔になった。「それってさぁ」悪趣味だと言われるだろうか。「私のことめっちゃ好きじゃん……」
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彼女はピアノを弾く時だけお揃いの指輪を外す。日曜日、クーラーが効いたリビングまで音の波が寄せていた。彼女が演奏を始めたようだ。僕はそっとピアノのある部屋に近づき、その姿を見守った。少しだけ妬ける。銀色の指輪を外した白く細い指は、あの美しい楽器と透明な糸で結ばれているように見えた。
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六月の結婚式。心配していた天気は晴れ、両親もホッとした顔をしていた。「今日からは家族だよ」目に飛び込んできたのはタキシードの白。十年も片思いしていた貴方は、変わらぬ優しさで包んでくれる。「うん、よろしく」笑わなきゃいけないのに泣きそうだった。貴方は歩いていく、花嫁である姉の元へ。
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「蛙化現象って知ってる?」少し前に僕を振った同級生は、休み時間にそう尋ねた。「知らない。どういう意味?」「好きな相手に好意を持たれると、急に気持ち悪く感じちゃうこと。そういう子、結構多いんだって」へえ。世界には残酷な現象があるもんだ。「それがどうかした?」「いや、ただの自己紹介」