彼は手先が不器用だ。特にネクタイを結ぶのが下手で、私の仕上げが日課になっている。「今日もありがとう」優しく抱きしめてくれるから、朝の時間が好きだった。リビングから聞こえるテレビの音で目覚めたある日。スーツを着た彼はネクタイを綺麗に結んでいた。「ばれた?」彼は照れた顔で襟を正した。
好きな人からデートに誘われた。午後二時、駅前に集合。当日は舞い上がりすぎた。何度も着替えたり髪型を変えたりしていたら五分ほど遅くなってしまった。改札を出ると、遠くに君の横顔が見えた。それだけで胸がいっぱいになる。落ち着かない様子で前髪を整えている君が、家を出る前の自分に似ていて。
私の両親は忙しく、子供の頃はいつも一人で遊んでいた。だからだろうか。自分が親になった時、家族との時間を大切にしたくなった。遊園地も水族館も何度も行った。けれど今年成人する娘は「行ったっけ」と首を傾げる。あの日々は儚く消えたのだ。でも、と娘は言う。「毎日楽しかったことは覚えてるよ」
彼と大喧嘩をした。だけど離れられないのが同棲のつらいところだ。夜、お互い背を向けてベッドに入る。すると彼が肩をちょんとつついてきた。「寝る前に仲直りしないと駄目なんだって」「誰に聞いたの」「この前読んだ本に書いてあった」何言ってんだか、と笑って振り向く。本を読むのは苦手なくせに。
「寂しくなっちゃった」と彼女は俯いた。それが別れたい理由だった。僕は分かったと答えたが、三年間の思い出を壊す理由が寂しさかよ、と泣けてきてその夜は眠れなかった。半年経って僕は気づいた。最後に伝える言葉として「寂しい」を選んだだけだ、きっと。最後まで僕を責めないのが彼女らしかった。
「お手紙をくださいよ」私がそう頼むと、夫はいつも困った顔をする。「いいのか?せっかくの誕生日なのに」「ええ」それでも夫は下を向く。「俺は文章が下手だし」「構いませんよ」年に一度のわがまま。好きだなんて言わなくなった貴方が、手紙の最後には必ず『ずっと一緒にいてください』と書くから。
大好きなアイドルが引退した。平凡な僕の顔まで覚えてくれた完璧なスター。夕方、欠けた心を抱えて街を歩く。今頃あの子もどこかで暮らしているだろうか。ふと顔を上げると、信号の向こうに憧れのあの子の姿が見えた。確かに目が合った。僕らは無言ですれ違う。涙を堪えて、僕は完璧なファンになった。
高校時代ずっと付き合っていた彼と友達に戻った。けれど趣味が合って、今でも時々一緒に出かける。今週末もそうだ。土曜の朝、私は鏡の前であれこれ悩んでいた。いつものスカートはやめてジーンズが無難か。髪型ももう少し手を抜こう。ふうと息を吐いた。困ったな。やっぱり私達は、友達とは少し違う。
「二人はなんで同棲しようと思ったの?」友人を交えた飲み会でそんな質問を受けた。理由か。彼の家の方が職場に近いし、節約にもなるし、あとは……。どれを挙げようか迷っていると、彼がさらりと答えた。「一緒に住みたかったから」友人は単純、と笑ったけれど、私にはその答えが胸に深く響いていた。
「ずっと親友でいようね」誕生日プレゼントに添えられていたメッセージを読んで心が温かくなった。あの日から十年、今でもよく連絡をとる間柄だ。嬉しいことがあった時は一番に報告し、つらい夜は二人で飲み明かした。だから心に決めている。この子とずっと親友でいよう、好きだよとは言わないままで。
彼は元カノとの思い出が詰まったものをほとんど片付けた。私のためなのか自分のためなのかは分からない。けれど、一つだけ手放せなかったそうだ。「こういうの気にする?」「ううん。大丈夫」嫉妬する、なんて言えるはずもない。強くなりたい。ゆるやかに泳ぐ金魚の尾ひれに、君の愛した夏が見えても。
出会って一週間で付き合った。そんな衝動的な恋も、気づけば三年続いている。「ねえ、初めて会った時から好きかもって思ってた?」蝉の鳴き声が響く夜の公園で彼に聞いてみた。「いや。違うこと考えてた」彼は首を横に振った。当然頷くと期待していたのに。「ずっとこの人を探していた気がする、って」
「好きな人いる?って、ほぼ告白だよね」お喋りが止まらない私とは対照的に、幼馴染はゲームに没頭中。ボスを倒すので忙しいそうだ。「聞いてる!?」「うん」絶対嘘だ。私は諦めて本棚から漫画を取り出した。5分後、ゲームを終えた彼は隣に腰掛け、不機嫌そうに言った。「まさか好きなヤツいんの?」
ずっと好きだった人に恋人ができた。まったく騙されたような気分だ。恋愛には興味ないかな、といつも言っていたのに。昔から遅刻癖があるから心配だけれど「相手の子は気が長いから大丈夫」なんて君はいい気なものだ。今日も「5分遅れる」と通知が来る。まあ確かに、5年に比べれば5分なんて一瞬だ。
長く付き合った彼女と喧嘩別れをした。クリスマスの直前だった。怒り顔で玄関を出るその姿を思い出しては深く傷ついた。僕が立ち直ったのは、春になり新しい恋人ができてからのこと。今はあの子の幸せを願う。僕はたぶん一生勝てない。喧嘩別れした僕の悪口を、あの子は親友にすら言わなかったらしい。
彼女は最高の恋人だった。出会いは大学の入学式。隣の席になったことを、運命だと思うほど日に日に惹かれた。六月の雨の中、彼女は僕の告白を泣いて喜んだ。初めて手を繋いだ瞬間を、きっと死ぬまで忘れない。仕事を始め、僕らは恋人でいるのをやめた。都会の空に月が見える。彼女は最高の妻になった。
休み時間にどれだけ語り合っても話が尽きない友人だった。だから余計に焦ってしまう。この頃二人で会っても話が続かないことに。「友人は服と同じ。いつの間にか合わなくなる」とよく聞く。けれど思い出が眩しくて前を向けない。大好きな服がもう合わないと気づいた朝の冷たさに、喉の奥がひりついた。
「誰かを好きになったことある?」クラスメイトの君とプリントを抱え、静かな廊下を歩く。「ないな。いつ気づくの、好きとかって」僕の答えに君はそっかぁ、と頷いた。お子様だと呆れてるんだろう。「好きになると、相手の恋愛経験が気になるの」夕日が差す廊下に響くその声は、なぜか少し震えていた。
彼とスーパーに行った。昔は二人で買い物というだけで心躍ったが、今ではこれが日常だ。無口な彼は必要なものを淡々とカゴに入れていく。「他に買うものある?」いや、と答えると彼はすぐレジに並んだ。分かりにくいがかなり好かれていると思う。カゴの中には知らぬ間に私の好きなお菓子が入っていた。
先輩はすごい人だ。どんな相手に対しても態度を変えない。社内でも、社外でも。自分も努力しているが、上手くいかない。気に入った相手には甘くなるし、苦手な相手とはぎこちなくなる。「先輩は人によって態度を変えたりしないですね。尊敬します」先輩はニコニコして答えた。「まあ全員嫌いだからね」
数年前の自分が残した言葉が今まさに響いている。
二人なら無敵だと思っていた。同じ丈に揃えた制服のスカート。教室の隅で、将来の夢も好きな人も一番に教えあった相手だった。大人になった今も、お揃いで買ったストラップが鞄の端で揺れている。彼女は今年上京した。こちらへ頬を寄せ「地元の友達」と紹介するこの子を、私はまだ親友と呼びたかった。
十年付き合った彼女と別れることになった。制服姿で手を繋いだ日々は過ぎ、もう二十代半ば。「最後に写真を見ようよ」古びたソファに腰掛け、彼女は僕を手招きした。水族館、温泉旅行、どれも懐かしい。けれど僕らは途中で見るのをやめた。ここ数年の写真が少なすぎると、きっとお互いに気づいていた。
年をとっても手を繋いで歩こう。そう約束して結婚した。けれど目尻のシワも増えた今、恥ずかしくて手なんて繋げない。久々に手を差し出されたのは事故で足を怪我した後だった。まだ不安定な私の体を支えてくれた。事故から半年、今日も夕方の散歩道で手を繋ぐ。お互い怪我は治ったと知っているけれど。
寒い夜は彼で暖をとる。セミダブルのベッドの上、漫画を読む彼の右腕にぴたりとくっつきスマホを触るのだ。お互い無言のまま。冷え性な私とは違い、彼は指先までほかほかしている。眠気を覚えながらふと思った。幸せとは、漫画なら一コマで済まされそうなこの時間が長く長く続くことなのかもしれない。