野口晃菜 Akina Noguchi(@akinaln)さんの人気ツイート(リツイート順)

子どもの権利や障害のある方の権利を中心に見据えた教育や支援について話すと、「理想を語るな。変に夢を見させるな。現実とのギャップに苦しむのは子どもや保護者だ」と専門家から言われることが昔からよくある。
障害のある人への強制不妊手術というあり得ない差別行為を国が主導してやっていた責任を、国は認め、賠償を支払うべき。上告をするなんてありえない。断固抗議します。jiji.com/jc/article?k=2… #優生保護法裁判最高裁への上告は人権侵害の上ぬり #優生保護法裁判国の最高裁上告に抗議します
パートナーが育児をメインで担当することや、パートナーが苗字を変えることを伝えると「理解があるパートナーでよかったね」って反応多いのだけど、もやもや。
あと、やはり障害者差別解消法ができたことはかなり大きい。差別的取り扱い禁止や合理的配慮の提供義務などの法律があるから、教育が活きる。制度なしではなかなか難しい。LGBTQ差別禁止法もはやくつくるべき。「理解増進」ではなくて「差別禁止」であるべき。
例えば合理的配慮が特別扱いでずるい!って言うけれど、私たち今なんならマジョリティとして「特別扱い」受けている状態だね、とか、ずるいと思うなら、実は自分も気付かぬうちに抑圧受けてて合理的配慮が必要かもね?とか、そういう講演を最近はしている。
本田先生のシェアありがたい😭記事を急ピッチで書いたのは、国連勧告により、障害のある子とない子が場を共にする/しないの二元論の議論になってしまい、立場や障害種ごとの分断が強化され、結果少数派がいることを前提とした通常教育改革が進まないことを危惧したから。
学校や少年院で境界知能の子どもたちが適応的な行動ができないのは、その子が境界知能だからじゃなくて、これまで学校でその子にあった学び方で行動を誰も教えてこなかったから。学校がマジョリティ仕様の教え方でしか教えられるキャパしかなかったから。
差別構造を無自覚に維持していたり、特に学ぶ必要性を感じてこなかった人たちに、抑圧を感じてきた経験や学ばざるを得なかった中で得てきた知識を一生懸命説明しても、論破しようとされたり結局行動変容しなかったら、そりゃ学習性無気力になる。それでも声あげるしかできない。
増えてきたのでこのツイートの意図を解説しておきますが、意思決定をする立場にいる人ほど社会課題の解像度が低くなる学校教育の構造についての問題提起です。障害の有無のみに関わることではないし、安易に「障害のある人とない人が一緒に学べば良い」ということのみを言いたい訳ではありません。
不登校の要因、相変わらず要因のそもそもの選択肢が医学モデル的。 なぜ子どもは不安なのか、無気力なのか。なにがそうさせているのか。学校の要因分析を。今の学校が子どもにとってどんな場所かを示す明確なフィードバック。 twitter.com/asahi_school/s…
通常の学級で合理的配慮を「ずるい」という子どもがいたら、それは権利について学ぶ絶好のチャンスだと思う。そもそも子どもたちにはどんな権利があるのか?その権利を守るためにどんな行動ができるのか?差別はなぜおこるのか?なぜ合理的配慮が必要なのか?など、学べる機会。
参考までに。「「自己責任」と「自己肯定感を上げるべき」は根底でつながっている」 co-coco.jp/series/study/s…
合理的配慮の話すると「その子自身が特別扱いを嫌がります」っていうのだけど、それは、全員が同じペースで同じ方法で同じ内容を学ぶことが当たり前になっているからで、つまり教える側がそう教えているからなんだけど、「子どもが受け入れたがらない」ってなってしまう。
「境界知能」の人に支援が届きづらい、という文脈は大切だけれど、IQだけを重視することはスティグマにつながりやすくなってしまうのでは。 そもそも知的障害は知能だけではなく適応行動も含めているのに、数値でわかりやすいからかIQだけに焦点当てられがち。
合理的配慮はプラスαすることではなくて、マイナスをゼロにすること。多数派の障害のない人たちと同じスタートラインに立つために必要なこと。これまで障害のない人たちが「特別扱い」うけていたことを、障害のある人も同じくらい「特別扱い」すること。
研修で大切にしていることは、構造の問題を提示すること。特に教職員研修はともすれば自分が頑張れば全て解決する、と思わせてしまう研修になりやすいが、個人でできる工夫、学校でできる工夫、自治体や国がやるべきこと、をセットで提示する。個人や学校で難しいことはどんどん声をあげましょう、と。
これは障害でもよくある話で「障害という言葉で括る方が差別だ」とか「マイノリティとマジョリティに分けることが差別だ」などよくあるのだけど、それは障害やさまざまなマイノリティ属性の人がいることが前提の社会にならないと、難しい。格差を見えなくしてしまう。 twitter.com/tatsu_furu0220…
教育と医療は特に障害やメンタルヘルス分野において繋がってはいるけれど、教育の専門性と医療の専門性は異なる。にも関わらず、医療の権威は本当にすごい。一般的にも学校においてもお医者さんの一言が誰の一言よりも「価値がある」とめちゃくちゃなりやすい。
マジョリティ特権の認識のある人にはあー耳が痛いってなるツイートなのかも(私含め)。一方で、マジョリティ特権の認識のない人にこれを伝えても反感を買うだけになってしまう。どうしたらいいのか。それを考えるのがマジョリティ性が高くてアライでありたい私の役割。一緒に考えたい人募集中。
あたりまえの権利があって、ようやく「努力」はできるのだろうし、そしてその上で努力をしようがしまいが、それはその人のチョイス。それも努力や頑張りなんて他者に評価できない。他者に強いられるものでもない。
マジョリティが「大事なことだけどお金がないから仕方ない」と当事者に言うことは「あなたのために社会はお金を使えないから権利が保障されなくても仕方ない」と言っているようなものだということを認識しなければならないと思う。
今日はこちら。 「学校は『みんな仲良く』と指導してきた。しかし、みんなと同じでなくても『異常』に見えることがあってもかまわないと、果たして認めてきただろうか。自由なありようや意見に対し、それらが表現されるチャンスを与えてきただろくか」p.42 amzn.to/3Zn5tnm
「私だってつらい!」とどちらがより抑圧を受けているか競争をして「我慢をしている人が偉い」ではなく、私の辛さもあなたの辛さも生み出している背景にあるその構造をどうしたら変えていけるのか?を考えたりそういう機会作っていくべきなのはそれについて考える特権を持っている自分の役割だと思う
ずっと読まなきゃと思ってようやく読み始めた。序章からしびれる。 「わたしたちが求めるのは、「自立支配」社会の舞台上で自己を自律的な意思あるパフォーマティブな主体として常に努力しつつ活性化させる脅迫的な日常からの自由である」 自立へ追い立てられる社会, p.10
ABEMA Primeに出演の打診があったときに、「マイノリティ当事者に対する差別的な発言をされるコメンテーターがいたり差別を煽る番組構成だったら出ることはできません」と伝えた。そういう番組構成やコメンテーターの起用を今後も続けるのであれば、今後は断るべきか、と思う。