加害者を死刑にしてそれで終わりでいいのか。「悪者」がいなくなればいいのか。加害者の罪は本当に加害者だけのものか。 #死刑制度に反対します
社会構造上、属性によって特権があったり、抑圧を受けている実態がある。一方でそれによって個人が感じる辛さには個人差がかなりある。抑圧を受けている属性であっても、それに気づかない人もいれば、サバイブするために適応してきた人もいる。だから、個人同士の「自分の方がより辛い」対決は不毛。
「自分がやられて嫌なことはやっちゃだめだよ」ってよく言われがちだけど、「自分がよくても相手は嫌なことはある」「相手が嫌がることはやらない」こそ大事では。自分がやられてよくても相手はいやなことは往々にしてよくある。逆もそうで、相手がよくても自分が嫌なことはよくある。
人生であと何回「もし私があの人より年配の男性だったら同じことを同じふうに言われたのだろうか」って思わなきゃならないのだろうか...
知的・発達障害に関わる専門家は身体障害についての解像度が低すぎるし、身体障害に関わる専門家はその逆だといつも思う。私もそうで、正直ここ数年でようやく自立生活運動やその歴史についての解像度がかなり上がった。広く浅くではあるけれど、「障害」について語る以上、やはり知っておくべきと思う
「学歴」も特権である、という話をすると、その他については納得する人も納得できない、という声をよく聞く。学歴はその人の努力次第、と思っている人が多い様子。「努力をすればなんでもできる」というのは本当に救いにもなり呪いにもなる。
「努力をするべき」「頑張れば報われる」の呪いは子どもの時からほとんどの人にしみついているんだと思う。そういう呪いから、「自分は頑張らずに権利ばっかり勝ち取ろうとする、文句ばっかり言う」みたいな言葉が出てきてしまうんだろうか。
あたりまえの権利があって、ようやく「努力」はできるのだろうし、そしてその上で努力をしようがしまいが、それはその人のチョイス。それも努力や頑張りなんて他者に評価できない。他者に強いられるものでもない。
いわゆる「エリート」な立場にいる人の「マイノリティは何も努力せずに権利ばかり主張する」的な言動は、このような呪いからも来ているのでは、と感じる。もちろん知識として知らない、というのもあるが、感情として「自分は頑張ってここまできたのに」があるのかな、と思ったりする。どうなんだろう。
差別や偏見をなくすためには、「思いやり」や「想像力」よりも、いかに今の社会が権力のある立場や主流に属する立場に偏った社会か、これまで差別を撤廃するためにどんな出来事があったか、などの知識を得る機会が本当に大切だと思う。
ここの共通理解がとれていないと、「議論」にすらならない、ということはこれまでさんざん経験してきた。特に意思決定をする立場にある人達がその知識を得られる機会をつくりたい。
講演や研修では、ここの共通理解のために社会モデル、特権、インクルージョンの概念を説明するのだけど、「バリアフルレストラン」の取り組みをいつも紹介している。いかに「レストラン」が車いすユーザーではない二足歩行者を中心としたつくりになっているかがよくわかる。youtube.com/watch?v=JnBS4Y…
子どもの権利や障害のある方の権利を中心に見据えた教育や支援について話すと、「理想を語るな。変に夢を見させるな。現実とのギャップに苦しむのは子どもや保護者だ」と専門家から言われることが昔からよくある。
「障害の有無関わらず」や、「誰もが特性がある」という言葉が、障害がある人の受けている抑圧や障害のない人の特権を不可視化・矮小化するために使われないようにするには、かなり注意が必要だと思う。
たしかに誰もが何かしらの特徴は持っているし、そもそもグラデーションなので、発達障害の場合は特に「みんなちがってみんないい」トラップに陥りやすい。でもたしかに世の中は発達障害の特徴がない人を中心に作られているということは、可視化し続けなければならない、と思っている。
急ピッチで書きました!※勧告の解説は一部のみ。 国連が日本政府に勧告「障害にある子どもにインクルーシブ教育の権利を」(野口晃菜) #Yahooニュース news.yahoo.co.jp/byline/noguchi…
本当に不登校も同じ構造で、「ここが合わないなら別の場に行ったら良い」というのは、「選ばされている」状況ではないか。学校のあり方を見直さずに、なにも工夫もせずに、「その子に合った場所を」というのは、学校の問題を不可視化して子どものせいにしてしまっている。
マジョリティが「大事なことだけどお金がないから仕方ない」と当事者に言うことは「あなたのために社会はお金を使えないから権利が保障されなくても仕方ない」と言っているようなものだということを認識しなければならないと思う。
本田先生のシェアありがたい😭記事を急ピッチで書いたのは、国連勧告により、障害のある子とない子が場を共にする/しないの二元論の議論になってしまい、立場や障害種ごとの分断が強化され、結果少数派がいることを前提とした通常教育改革が進まないことを危惧したから。
【書籍がでます!】 インクルージョン研究会あぜみのメンバーを中心に当事者、実践者、研究者総勢26人でつくった書籍が来月発売されます! 「差別のない社会をつくるインクルーシブ教育-誰のことばにも同じだけ価値がある」 amzn.to/3QSOrIe
マイノリティ属性の中にもさらに主流とそうでないものがあって、だこらこそ交差性の視点は本当に大切。フェミニストが「このコミュ障が」って言っていたり、障害者運動の中で女性差別があったり。特に対人コミュニケーションの困難さに対する差別はめちゃくちゃ難しい。
ご本人は反差別行動をしているつもりが、その言葉が「読解力ないですね?」「病院行った方がいいのでは?」「IQ大丈夫ですか?」とかもあったりして、しんどい。
東京都現代美術館にて、「私の正しさは誰かの悲しみあるいは憎しみ」。工藤春香さんの旧優生保護法や相模原殺傷事件を中心とした展示。いかに障害のある人の尊厳が奪われてきたか。そして、当事者運動が歴史を変えてきたか。おすすめ。 mot-art-museum.jp/exhibitions/mo…
自閉症スペクトラムの子どもを「外国人」に例えている書籍。著者は「わかりやすさ」をもって例えたのだろうけど、どちらの差別も偏見も助長している。 twitter.com/_shiopan/statu…
「人権が侵害されるのは仕方ないよね」って論調には、どんな理由があったとしても、「私はそう思わない」と言っていくという表明。