とある政治家に政策提言をしに行った時に、初めから「あなたはまだ子どもはいないの」と言われ、限られた時間をプレゼンに使いたい私は一生懸命「いません。今博士課程にも在籍していて研究をしているのですが」とプレゼンに持っていこうとしても「大学院でも子どもはつくれるよ。早くしないと」
と言われ咄嗟に何も言えなかった。今だったら言い返せるだろうか。帰り道、政策を提案するたびにこんな思いをしなければならないのだろうか、と思い、そんな人に怒らずに丁寧にいろいろと説明しないと政策は変わらないのか、と絶望した。
一緒にいた人たちがその場で何も言わなかったのもショックだった。次同じことを言われたら、私以外の誰かが同じことを言われたらどう返すか、シュミレーションしている。
今名前をここで言いたいけれど言えない私にもイライラする。他にもいろんなことがあって、たまに全部ぶちまけたくなる。
言えない理由はやっぱりどこかで「言ったら捻り潰される」「これまで必死で作り上げてきたものを壊される」という恐怖があるから。でもそしたらまた繰り返されて誰かが同じ目に遭うのでは?大きな声でいうべきでは?との葛藤もある。もう少し時間をかけて整理したい、、、
「顔見知りの程度や、駅員さんの優しさに依存する仕組みではなく、「いつでも目の前の電車に乗れる」そんなJRの仕組みが必要なのです。」 「JRも他の鉄道会社と同様に、車いすユーザーが何本も電車を見送らずに電車に乗れる駅間連絡の仕組みを作ってください!」 chng.it/ctySTyBS
「エレベーターなどのない駅で階段での介助を依頼する車椅子ユーザーは「他人に頼」っているとみなされる反面で、数時間や数日かけて歩くこともできなくはないのに目的地までの移動に電車を利用する人々は、「他人に頼」っているとはみなされません。」 twitter.com/akinaln/status…
日々自分がいろんなものに依存して、頼って生きていることをどこまで知っているか、とか、「移動する権利」を当たり前に享受できる特権があることをどこまで知っているか、なのかな。「自立せよ」の呪縛が強ければ強いほどしっくりこないのかな。
パートナー氏「稼いでこいとか言われないから楽。ジェンダーバイアスから自由になりたい」そういう男性もだいぶ増えてきているのでは、と思う。「稼いでこい」と言われない社会のためには、女性も平等に収入が得られるように、ジェンダーによりキャリアが経たれない仕組みやケア役割の価値をあげること
「自分達の世代が意思決定する立場になれば変わる!」と思っていたのに、30〜40代でもハラスメントや差別構造再生産しまくり言動が多くて焦りがすごい。
差別構造を維持して再生産する言動をスルーせずに批判することと、自分も再生産している可能性があることを忘れずに更新し続けること、両方とても大事だが、両方続けるのはなかなかに難しい。
なぜいのちの電話の相談員がボランティアなのか。介護職や保育士などの対人援助職の給与が低いのか。どう考えてもおかしい。
「一度休むとサボり癖が...逃げ癖が...」って言うけれど、「いつ休んでもOK」という安心感があるから頑張れる人がたくさんいる。
こちらの記事にコメントしました。 「自閉症・情緒障害特別支援学級を作って」増えるニーズ 都内の37自治体が設置せず  - 朝日新聞EduA asahi.com/edua/article/1…
所謂偏差値の高い高校の生徒さんが「探求学習」や「プロジェクトベースドラーニング」の一環で「障害のある人が過ごしやすい社会のためになにが必要ですか?」とヒアリングに来ることがよくあるのだけど、そもそも障害のある人と接した経験がない。こういうことがいろんなところで起きている。
学校教育の役割。各教科の学力をつけることならば、塾みたいに全てレベル分けしてその子に合った学び方で効率よく学べるようにしていけば良い。それも大事かもしれない。今の学校では、多様な人がいること、いろんな事情や価値観があること、その中でどう共存するのか、を学べるか。大事にされてるか。
そしてこの「偏差値の高い高校」の高校生たちが大人になって、官僚になり、企業の役員になり、学校の先生になる。意思決定をする立場になっていく。
多様な人がいることを知ること、人はそれぞれ違うことを知ること、その中でよくわからない人とも地域でお互いの人権と自由を尊重し合って共生していくこと。学校だからこそ学べることなのではないのか。
増えてきたのでこのツイートの意図を解説しておきますが、意思決定をする立場にいる人ほど社会課題の解像度が低くなる学校教育の構造についての問題提起です。障害の有無のみに関わることではないし、安易に「障害のある人とない人が一緒に学べば良い」ということのみを言いたい訳ではありません。
どんなに専門家であってもどんなに勉強してきていたとしてもマイノリティ属性であったとしても、「自分は全く差別をしていない」ということはないのでは。常に「自分は差別してしまっているかもしれない」と思いながら学び続けて修正し続けるしかない、といつも思っている。
「できる」「できない」の物差しだけで人を見ていないか。「生産性」で「効率的」の物差しで人や自分を測っていないか。なにかがうまくいかないのはその人の努力不足、自己責任と切り捨てていないか。人の幸せがなにかを勝手に規定していないか。 #PrayForSagamihara
「できない自分はダメだ。いなくなるべきだ。」と思っていないか。周りの人にそう思わせてしまっていないか。休むことに罪悪感を持っていないか。人の人生は、生活は、こうあるべきだと勝手に決めたり、決められたりしていないか。 無自覚にそういう考えに基づいて組織や仕組みや制度を作っていないか
「頑張れないこと、努力できないこと」で自分や周りを責めていないか。「努力が足りない」と勝手に決めつけていないか。努力ができない人は最低限度の生活が送れなくて当たり前、と思っていないか。無自覚にそういう意思決定をしていないか。そういう支援や教育をしていないか。
一人ひとりの声を聞かずに、「障害がある子は別の学級や学校で学ぶべき」と決めつけていないか。「障害がある人は施設の方が安心して暮らせる」と決めつけていないか。カテゴリーだけ見て、その人のことを知らないのに決めつけていないか。
ケア役割を担うことの価値を低く見ていないか。支援職は給与が低くても仕方ないと思っていないか。家族がケアを担うべき、それが当たり前、と思っていないか。「それを選んだ自分が悪い」「それを選んだその人が悪い」と思っていないか。