小山田圭吾氏の障害者いじめ問題から考える教育現場の現状と課題(野口晃菜) - Y!ニュース news.yahoo.co.jp/byline/noguchi…
社会モデルを知らないと合理的配慮は「障害に応じて配慮をする」というざっくりとした理解になってしまう。そもそも合理的配慮が必要な理由は社会が障害のない人を中心に作られているが故に社会的障壁があるから、それを解消するために必要。そのため、合理的配慮を検討するには、
ハラスメントやいじめ、「いじられキャラ」や「下ネタOKキャラ」を演じなきゃサバイブできなかった人たちとそれを利用していじりまくる人たちの構図、それに違和感を持った人が批判したらバブられる同調圧力や批判をしたら職を失うかもしれない組織の恐怖政治...本当によくあるある。
ワンオペはほんとあり得ない。退院してからもしばらくはパートナーにおんぶにだっこになると思う... 赤子と私のお世話と考えると、本当はせめて産後一ヶ月はパートナーと+二人ぐらい動ける大人がいた方が良いのでは...とか思う。
あと、一人の人の中にマジョリティ性とマイノリティ性が両方あることや、どんなに「良い人」でも加害性を持っていること、どんなに「嫌な人」でも人権があること、とかの共通理解もとても難しい。
「不快な思いをさせたこと」ではなく「差別に加担したこと」を謝罪してほしい。ムーミン大好きだからこそ、お願いします。 twitter.com/moomin_jp/stat…
このニュースへの反応、 ・生殖に関する自己決定権の軽視 ・障害のある方の自己決定権の軽視 ・「子育ては家族のみが担うべき」 ・ケア職の軽視 などが、社会の構造にいかに組み込まれているか、結果それを人々が当たり前としているか、がよくわかる。 twitter.com/akinaln/status…
学校教育の役割。各教科の学力をつけることならば、塾みたいに全てレベル分けしてその子に合った学び方で効率よく学べるようにしていけば良い。それも大事かもしれない。今の学校では、多様な人がいること、いろんな事情や価値観があること、その中でどう共存するのか、を学べるか。大事にされてるか。
「今般の事案により、オリンピック・パラリンピックを楽しめない気持ちになった障害のある人や家族、関係者が多数いることについては、強く指摘しておきたいと思います。」
マジョリティ属性にとっての当たり前がマイノリティ属性にとって当たり前じゃないという話をすると「自分にとっての当たり前がそうじゃない人もいると知りもっと日々感謝したい」って感想、講師としてはそこからどうやって自分の特権を使って差別をなくすか?って考えたくなるような研修や講義せねばと
マイノリティ属性が受けている差別とそれを生み出し維持している構造についてマジョリティ属性の人が学ぶことによって、実はマジョリティ属性の人も自分自身の努力不足だと思っていたけれど社会の構造により抑圧を受けていたことに気づく、ということが多いと思う。ここについて掘り下げたい。
男性だったらこういうこと言われないんだろうな、こういう接し方しないんだろうな、ってことがたくさんある。男性も女性だったら言われないんだろうなってこと、たくさんあるのかな。両方なくしたい、本当に。
そしてこの「偏差値の高い高校」の高校生たちが大人になって、官僚になり、企業の役員になり、学校の先生になる。意思決定をする立場になっていく。
最低限、こういう環境が整ってからのキャリアアップ支援では???
「人と人との間には、個々人の考えや努力に関わらず、すでに差別構造による格差がある」だから「人と人との関係性は基本対等ではなく不均衡」という前提を共有することはとても難しい。権力がある立場にいる人ほど、「人と人は対等である」「個人の努力次第」と考えがちの印象。
知的・発達障害に関わる専門家は身体障害についての解像度が低すぎるし、身体障害に関わる専門家はその逆だといつも思う。私もそうで、正直ここ数年でようやく自立生活運動やその歴史についての解像度がかなり上がった。広く浅くではあるけれど、「障害」について語る以上、やはり知っておくべきと思う
過酷な労働環境やハラスメントが放置されている状況が問題で休職や離職が減らないのに、「ストレス耐性がない」と労働者側の問題にされて、休職や離職への対策として「ストレスマネジメント研修」が行われたりする現象よ。
社会構造上、属性によって特権があったり、抑圧を受けている実態がある。一方でそれによって個人が感じる辛さには個人差がかなりある。抑圧を受けている属性であっても、それに気づかない人もいれば、サバイブするために適応してきた人もいる。だから、個人同士の「自分の方がより辛い」対決は不毛。
差別的言動をした人がそのまま何の指摘もされずに何もせずに政治家や企業役員など影響力のある立場にい続けられるということがとても怖い。そういう人がトップにい続けられる組織は、どんな政策を作るのか。どんなサービスを作るのか。差別をそこまで重要視してませんってメッセージ。
合理的配慮の話すると「その子自身が特別扱いを嫌がります」っていうのだけど、それは、全員が同じペースで同じ方法で同じ内容を学ぶことが当たり前になっているからで、つまり教える側がそう教えているからなんだけど、「子どもが受け入れたがらない」ってなってしまう。
ケアを担う施設で起こる虐待・暴力の背景にある抑圧構造。どの施設もこれらの影響を受けている。全然他人事じゃない。 ・男性優位(現場は女性、管理職は男性など) ・健常者中心 ・子どもの権利軽視 ・ケア職軽視(低賃金・雇用の不安定さ・労働環境) ・管理主義 などなど...
学校で何かしら問題があると「子どもが多様化している」とか「教師の専門性が足りない」と要因分析を細やかにすることなく問題が個人化されて、一人ひとりの能力をつけることが施策として打たれる。その繰り返し。 心理・福祉の専門性持った教員の養成を kyobun.co.jp/news/20230130_…
今こそ全ての障害に関わる仕事をしている人たちにこの本を手に取ってほしい。 seikatsushoin.com/books/%E6%AE%B…
それぐらい、支援する・される関係性は、危ない。「誰かを救いたい」という善意や正義感はすぐに支配に置き換わる。「よかれと思って」虐待や暴力に発展する。
「声を上げて社会を変えるべき!」「自分がまずは前例になろう!」みたいなアプローチも一歩間違えると能力主義バリバリになる。