R774@まとめ屋(@kendou774)さんの人気ツイート(リツイート順)

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かつては、この航空写真以上に家屋が立ち並び、耕作地が広がっていたそうです。今は、全て廃屋と荒れ地です。
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『刀の眠る本殿』 たった一人、この神社を管理する人がいる。今年一年、皆様には多くのことをご教授いただきました。この場を借りてお礼申し上げます。また、私の力不足ゆえ、スレッド化できたのは谷折、尾島、猿江、元之庄の4箇所だけでした。多くの情報をいただきながら纏めきれず申し訳ありません。
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『鹿も猿も来なくなった』のだと。時代とともに集落から人が減り、それとともに耕作地も減っていった。ついには、集落にご夫婦だけとなり、作物は作られなくなった。すると、動物達は集落に来なくなったというのだ。
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離村時に植えたと思われる杉は大きく育ち、日差しを遮っていた。薄暗い集落内には耕作地跡が広がり、数軒の家屋が残っている。ただ、とても人の住める状態ではない。当時は、畑作を中心として炭焼などを行っていた。尾根上に位置するが清水の出る場所があり、水に困ることはなかったという。
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以上で櫃島についてのツイートは終わりです。この場をお借りして、お世話になりました船長、問い合わせさせていただいた萩市役所の方々、及びお話を伺わせていただいた島民の方にはお礼申し上げます。
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愛知県北東部に、かれこれ10年以上通行止めの『開かずの県道』がある。県道は、険阻な渓谷の中にあり、沿道に人の営みは全く見られない。しかし、最新の航空写真には、県道から300m上方に不自然な窪みと人工林が写っているのだ。過去の地図と照合すると、『大入』という集落が描かれているではないか。
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45年前の航空写真には、台地上に耕作放棄地と農作業小屋が写っていた。今では影も形もなく、明るく広々とした雰囲気だけが残っている。尾島での主な現金収入源は葉タバコで、それ以外にも麦、甘藷、スイカ、葡萄を作り、漁業も細々と行っていた。厳しい環境での暮らしは、決して楽ではなかっただろう。
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『ダム湖に沈めなかった集落』 昭和31年、暴れ天竜に完成した佐久間ダム。この巨大ダムによって、天竜川は全長33kmの長大なダム湖となり、多くの集落がダム湖に沈んだ。写真に写る佐久間町の山室(やんぶろ)集落もその中のひとつだった。
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平家の落人伝説が残る祖谷地方。どこまでも続く山々と険しい谷間、そこに息づく人の営みからは、落人伝説を連想せずにはいられない。西祖谷山村(現・三好市)は、全域が深い谷間にあり、急な斜面に僅かな耕作地と、昔ながらの家屋が点在している。田丸集落は、村中心部から近い場所に位置するのだが…
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長い吊橋の向こうには、緑の木々が生い茂る。その木々の中を通る小道。『野鳥の小径』と名付けられた小道沿いには、営みの跡が残っている。ダムの建設により、この地域は大きく変わった。それでも、いくらかの人々はここに住み続けた。しかし、いつしか人は去り、野鳥のさえずる森へと変わった。
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緑のトンネルが集落の入口だった。航空写真では緑に覆われた島であるが、緑の下には当時の生活跡が残る。険しい断崖に囲まれたこの島に住んでいる人達がいたとは、今となっては想像もできない。島根県高島。
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『焼畑のムラ』傷んだ観音堂の中には、500年前の十一面観音像が祀られている。そして、裏の急斜面を登った先、鍾乳洞の中には弁財天が祀られている。これほど魅力的な場所でも、観光客は殆ど来ない。次のスレッドのために、再度この村を訪れました。7月初旬~中旬ツイートまで暫くお待ち願います。
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『高島に行く』それは簡単ではない。島へ渡る手段も、島の現状も全く分からないのだ。夏の盛り、その糸口を掴むために益田市役所に問い合わせた。後日、市役所のKさんから連絡をいただいた。なんと、元島民(以降、島民とします)の方と取り合っていただき、聞き取りの機会を設けてくださったのだ。
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田丸橋付近では、倒壊家屋、耕作地跡、墓跡が見られた。田丸集落と言っても、家屋は標高300mと600mの2箇所に集まっていた。標高300mの田丸橋付近には二軒の家屋があり、その様子は当時の航空写真からも窺い知ることができる。この先、標高600mに向けて誰も来ることがないであろう山道を登っていく。
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まるで神殿の様に、斜面の上方まで石垣が聳えていた。愛媛県の山の中。多くの人が行き交った参拝道。その沿道に集落はあった。多くの参拝者で賑わった集落は、ロープウェイができたことで運命が決まった。今、この集落に住む人はいない。ただ朽ち果て、『無』になるのを待つばかりだ。
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地図には残るが人はいない。この地域の集落の殆どがそうであった。地図上ではいくつもの集落が点在し、賑やかそうな場所に見えた。しかし、現在この地に残るのは2世帯のみだ。『長野県小川村』
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青崩峠トンネル(仮)は、いよいよ掘削率99%に達しました。残り36mです。貫通間近です。
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『花山神社』 社が無残な姿を晒す。境内に刃物を入れてはいけない言い伝えがあるので、荷物を置いて境内に入った。古くは大入の古屋敷にあり、明治初年に現在の地に移された。寛仁年代の棟札が見つかっているので、千年の時代を超えてきたことになる。しかし、 この姿が見られるのもあと僅かだ。
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『田丸集落』 前田丘から2時間半。生活用品の散らばる耕作地跡を越えると廃屋が現れた。風が轟々と吹き、対岸からは車やバイクの音が聞こえる。三方向とも明るく、尾根上に出たことがはっきりと分かる。かつての田丸は、傾斜が緩くなった尾根上と周辺に耕作地があり、その中に家屋が点在していた。
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『山の暮らし』 それは大都市のそばにもあった。近年まで東京都に存在したモノレール集落。ここでは長い年月、山の暮らしが営まれていた。しかし、時代とともに人々は集落を去り、遂には無人の集落と化した。住人の大事な足であったモノレールも撤去された。今、山の暮らしは急速に失われつつある。
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程なくして島民の方が来られたので、ご挨拶させていただいた。先のツイートで『櫃島の人口は2名』と書いたが、実は櫃島に常住者はいない。島民の方は、耕作のために本土から通っておられるのだ。これが『櫃島が無人島になるのも間近い』とされる所以である。無人島に限りなく近い島、それが櫃島だ。
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それはあり得ない。尾根から斜面を下る段階になると、山道は豹変した。急斜面を横切る山道は、滑落しようものなら谷底まで落ちてしまう。しかも斜面と同化して、道筋が分からない。何度も迷いながらも吊橋が見えてきた。結局、直線距離で200m、標高差100mを進むのに、30分以上要してしまった。
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『前田丘バス停』 何もない山の中にバス停がある。かつて、田丸集落の方々が利用していた名残りだろう。ここから田丸へ行けると聞いていた。確かに、道路脇から尾根道が伸びている。準備して尾根道へ向かう。バス停からの尾根道は、傾斜もなく歩きやすい。意外と楽に田丸へ辿り着けるのかもしれない…
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何故ここに神社記号があるのか。地図を見てそう思うことがある。この神社記号もそうだった。山上の神社記号を過去の航空写真、古地図と照らし合わせる。すると、『嶽(たけ)』という集落が現れた。現在の地図では集落が消え、神社だけが残されているのだ。現状を確認すべく、嶽集落へと向かった。
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『対岸に描かれた集落』 豊富な雪解け水が流れる大河。この大河を挟んだ100m先には集落があるはずだ。しかし、対岸に渡る橋は無い。どのように集落に向かうのか。その謎を紐解くうちに見えてきたのは、川と共にあった暮らしと、消えた祭祀の存在だった。